ペドロ・アルモドバルの世界といえば、身勝手な男たちに翻弄される女や同性愛者や性転換者たち、愛と性をめぐる親子の葛藤、宗教や性のタブーに踏み込む挑発的なユーモア、原色のコントラストが際立つ鮮烈な映像、セクシュアリティを強調する過剰なファッションやフェティシズム、ドラッグ、ラテンの情熱的で感傷的な音楽といった要素が、すぐに思い浮かんでくる。しかし、現在の彼の成熟ぶりから作品を振り返ってみたときに、重要性が増してくるように思えるのが、現実と虚構が交錯する独自のスタイルだ。
それは比較的初期の作品から垣間見られる。『神経衰弱ぎりぎりの女たち』(87)で、同棲生活が破綻しつつあるヒロインと愛人は、一緒に映画の吹き替えの仕事をしている。映画の冒頭で、愛人とすれ違いにスタジオに入った彼女は、男女が会話する映像を見つめながら、収録済みの愛人の言葉に答えるうちに、感情が昂ぶり、取り乱す。殺人にエスカレートする男たちの三角関係を描いた『欲望の法則』(86)では、主人公の映画監督が、性転換した兄をモデルにして書いた脚本のヒロインが、実在の人物であるかのように一人歩きする。
こうした交錯は次第にドラマの展開により大きな影響を及ぼすようになる。女優の母と娘の葛藤を描く『ハイヒール』(91)では、15年ぶりに帰国した母と、母の愛にめぐまれなかったがゆえに、対抗心から母を真似る娘の対立に、ステージで若き日の母の物真似をするゲイが割り込み、娘が彼と一回だけの関係を持ったことが、終盤の意外な展開に繋がる。
フィルム・ノワール、コメディ、サイコスリラーを強引に詰め込んだ『キカ』(93)では、ノワールを象徴する主人公のアメリカ人作家が書いた小説をめぐって、現実と虚構の転倒が起こる。『私の秘密の花』(95)では、ペンネームで通俗的なロマンス小説を書くヒロインが、私生活で追い詰められ、別のペンネームで自分の作品を酷評するという奇妙な状況を経て、編集者と秘密を共有していく。
そして近作では、そのスタイルが見事に洗練され、ドラマの展開に影響を及ぼすだけでなく、深いエモーションを生み出す。『オール・アバウト・マイ・マザー』(99)では、ヒロインとなる母親にとって忘れ難い舞台である「欲望という名の電車」が、彼女を襲う悲劇の発端となり、封印した過去へと旅立った彼女はその舞台に立ち、さらに、女たちの哀しみを受け止め、再び母親として歩み出す彼女の出発点ともなる。
『トーク・トゥ・ハー』(02)では、交錯というより、ピナ・バウシュの舞台やカエターノ・ヴェローゾのライヴ、オリジナルのサイレント映画が、自然にドラマに溶け込み、登場人物たちの内面と共鳴していく。なかでも特に素晴らしいのが、ヒロインに一途な愛を捧げる看護士の運命を象徴するサイレント映画「縮みゆく恋人」だ。
アルモドバルの半自伝的な作品『バッド・エデュケーション』(04)は、現実と虚構が最も複雑に入り組む映画といえる。映画監督の前にかつての親友イグナシオを名乗って現れた若者は、ふたりの哀しい過去をもとにした脚本を残していく。彼は、イグナシオを名乗り、アンヘルという芸名を使い、映画化される脚本のなかのサハラ役を演じる。『ハイヒール』で母娘の運命の鍵を握るゲイのレタルも、『私の秘密の花』のヒロインも三つの名前を持ったが、内面に潜む感情の複雑さは、まったく次元が違う。このドラマには、虚構もすべて受け入れ、くぐり抜けなければたどり着けない真実が描かれているのだ。
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