『抱擁のかけら』でも、主人公が複数の名前を持っている。マテオは本名を捨て、ペンネームだったハリーとして生きている。レナは、セブリーヌを名乗る高級娼婦という過去を持ち、「謎の鞄と女たち」では、ピナという人物を演じる。
アルモドバルは、このようにフィクションの可能性を広げていくが、そのすべてが現実と無縁というわけではない。彼の作品には、個人的な体験がデフォルメされて盛り込まれている。筆者は『抱擁のかけら』を観て、先述のインタビュー集で語られているあるエピソードのことを思い出した。
アルモドバルは、『バチ当たり修道院の最期』(83)を撮るためにルイス・カルヴォと契約した。この人物は石油と不動産で財産を築き上げた大金持ちで、その頃同棲していたクリスティナ・S・パスカルから別れると脅かされていた。そこで彼は、女優に憧れる彼女の要求に応じて映画制作会社を作り、企画がアルモドバルのところに持ち込まれた。そんな体験が、エルネストとレナの関係のヒントになったと見て間違いないだろう。
■■ 女と男 ■■
アルモドバルの作品といえば、女性の世界という印象が強いが、女性と男性に対する彼の視点は確実に変化してきている。筆者は、『ライブ・フレッシュ』(97)がその分岐点になっていると思う。この映画では、5人の男女が複雑に絡み合うが、彼らの運命の鍵を握るのは明らかに男性であり、アルモドバル自身もインタビュー集で「男の映画」と断言している。
そしてこの作品以降、彼は男性の存在も重視するようになるが、興味深いのは、男性映画と女性映画のコントラストだ。『トーク・トゥ・ハー』(02)では、昏睡状態にある女性に対する男性の想いが繊細に描き出される。『バッド・エデュケーション』の登場人物は、ほとんど男性で占められている。
一方で、それらの作品の前後に作られた『オール・アバウト・マイ・マザー』や『ボルベール<帰郷>』では、これまで以上に徹底して女性の存在が突き詰められていく。『オール・アバウト・マイ・マザー』では、登場人物がほとんど女性で占められている上に、ヒロインであるマヌエラの夫も、エステバンからロラという女性になっている。『ボルベール<帰郷>』(06)では、男性は三世代に渡って女性たちを傷つけるだけの存在で、すぐにあっさりと殺されてしまう。
アルモドバルは、女性と男性を交互に見つめることによって双方に対する視野を広げ、理解を深め、より豊かな表現力を身につけてきた。『抱擁のかけら』には、その成果が見られる。なぜならこの映画では、レナとハリー(マテオ)という女性と男性の双方から彼らの生き方が掘り下げられているからだ。
■■ 死、そして再生 ■■
『ライブ・フレッシュ』以後の作品については、死というものに対するアルモドバルの視点にも注目する必要がある。『ライブ・フレッシュ』には、主人公ビクトルにとって母親的な存在だったクララの死があり、『オール・アバウト・マイ・マザー』には、マヌエラの息子の死があり、『トーク・トゥ・ハー』には、女性闘牛士リディアや看護師ベニグノの死があり、『バッド・エデュケーション』には、主人公の幼なじみの死がある。だが、それらの死は、決して喪失や終わりではなく、個人という枠を超えて新しい愛や命や女性の連帯に繋がっていく。
そして、『抱擁のかけら』でも、レナの死によって終わった愛が、個人の枠を超えて再生を果たす。素晴らしいのは、レナとマテオの愛と彼らの映画が、見事に重ねられていることだ。レナは事故で、映画は最悪の編集によって命を奪われた。アルモドバルは、それらをひとつの死と見ようとする。だから、映画が蘇るとき、失われた愛もまた蘇るのだ。
最後に、細かいことではあるが、筆者は、アルモドバルがこの映画で、ハリー・ケインという名前を使っていることにも興味を覚える。先述のインタビュー集で、偽名で映画を撮りたいと思ったことがないかと尋ねられた彼は、このように答えている。「あるよ。何度もね! (中略)名前も考えた。ハリー・ケインというんだ。速く言うと、「ハリケーン」になる!」。アルモドバルは、自己逃避したハリーがマテオとして復活する物語を通して、自分が監督してきた作品の重みと、自分がアルモドバル以外の何者でもないことを確認しているようにも思えてくる。 |