抱擁のかけら (レビュー01)
Los Abrazos Rotos


2009年/スペイン/カラー/128分/スコープサイズ/ドルビーSRD・SR
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(初出:『抱擁のかけら』劇場用パンフレット)

 

 

アルモドバルが追求するフィクションの在り方

 

 独自の話術と美学に磨きをかけ、世界を魅了するスペインの巨匠ペドロ・アルモドバル。彼は、フィクションの可能性をどこまでも追求する監督だ。それは、劇映画で独自の世界を確立しようとする監督すべてに当てはまりそうだが、彼の場合はフィクションそのものに対する考え方が違う。インタビュー集『ペドロ・アルモドバル 愛と欲望のマタドール』には、その考え方のヒントになるような逸話が紹介されている。

■■ 表と裏 ■■

 『神経衰弱ぎりぎりの女たち』(88)をオールセットで撮ったときに、彼は、セットがどうなっているかを観客に見せたかったのに、わざわざ作り物に見えないように撮影するのが苦痛だったという。

 アルモドバルは、セットに限らず物事の表と裏の両方を見せることで、登場人物の複雑な感情を表現したいという願望を持ち、それを実践している。『オール・アバウト・マイ・マザー』(98)では、「欲望という名の電車」の舞台と舞台裏が描かれ、そこからヒロインの内面が見えてくる。『バッド・エデュケーション』(04)では、劇中で撮影される映画「訪れ」の世界とその映画を監督する主人公の過去が絡み合っていく。

 新作『抱擁のかけら』でも、過去のドラマのなかで、映画監督のマテオが「謎の鞄と女たち」という映画を撮影している。しかし、この映画の場合には、これまでにないアイデアが盛り込まれている。エルネストJr.が、メイキング撮影という名目で現場にカメラを持ち込んでいる。その映像は、様々な効果を生み出していく。

■■ 映像のなかの映像 ■■

 アルモドバルは、映像を利用してしばしば奇妙な状況を演出してみせる。たとえば、『ハイヒール』(91)では、キャスターのヒロインが生放送中に殺人の告白をし、『キカ』(93)では、ヒロインが突撃取材の映像を流す人気番組に翻弄されていく。

 しかし、ここで特に注目したいのは、『神経衰弱ぎりぎりの女たち』だ。この映画で、同棲生活が破綻しつつあるヒロインと愛人は、一緒に映画の吹き替えの仕事をしている。映画の冒頭で、愛人とすれ違いにスタジオに入った彼女は、主人公の男女が会話する映像を見つめ、収録済みの愛人の言葉に答えるうちに、感情が昂ぶって取り乱してしまう。

 『抱擁のかけら』の映像の使い方にも、それに通じる巧みなひねりがある。観客は、エルネストの目線で彼の息子が撮影した映像に接する。しかも、彼の隣には読唇を依頼された女性が座っている。それだけでも居心地が悪いのに、最後にはレナが現れ、映像と生の声がシンクロし、異様な緊張が生まれる。だが、効果はそれだけではない。この映像は後に主人公にとって大切な記録になるからだ。

■■ 複数の顔 ■■

 アルモドバルが表と裏を描くということは、登場人物たちが別の顔を持つことでもあり、彼らは複数の名前を名乗る。『欲望の法則』(87)では、主人公の映画監督パブロが、執筆中の脚本のヒロインであるローラ・P名義で手紙を書いたことがきっかけで、彼女が実在の人物のように一人歩きを始める。『ハイヒール』でヒロインの運命の鍵を握るゲイのレタルは、もうひとつの顔を持ち、最後にその正体が明らかになる。『私の秘密の花』(95)のヒロインは、ペンネームで通俗的なロマンス小説を書き、別のペンネームでその小説を酷評する。


◆スタッフ◆

監督/脚本   ペドロ・アルモドバル
Pedro Almodovar
撮影 ロドリゴ・プリエト
Rodrigo Prieto
編集 ホセ・サルセド
Jose Salcedo
音楽 アルベルト・イグレシアス
Alberto Iglesias
製作総指揮 アグスティン・アルモドバル
Agustin Almodovar

◆キャスト◆

レナ   ペネロペ・クルス
Penelope Cruz
マテオ・ブランコ
/ ハリー・ケイン
ルイス・オマール
Lluis Homar
ジュディット・ガルシア ブランカ・ポルティージョ
Blanca Portillo
エルネスト・マルテル ホセ・ルイス・ゴメス
Jose Luis Gomez
ライ・X ルベーン・オチャンディアーノ
Ruben Ochandiano
ディエゴ タマル・ノバス
Tamar Novas
レナの母 アンヘラ・モリーナ
Angela Molina
(配給:松竹)
 

 『抱擁のかけら』でも、主人公が複数の名前を持っている。マテオは本名を捨て、ペンネームだったハリーとして生きている。レナは、セブリーヌを名乗る高級娼婦という過去を持ち、「謎の鞄と女たち」では、ピナという人物を演じる。

 アルモドバルは、このようにフィクションの可能性を広げていくが、そのすべてが現実と無縁というわけではない。彼の作品には、個人的な体験がデフォルメされて盛り込まれている。筆者は『抱擁のかけら』を観て、先述のインタビュー集で語られているあるエピソードのことを思い出した。

 アルモドバルは、『バチ当たり修道院の最期』(83)を撮るためにルイス・カルヴォと契約した。この人物は石油と不動産で財産を築き上げた大金持ちで、その頃同棲していたクリスティナ・S・パスカルから別れると脅かされていた。そこで彼は、女優に憧れる彼女の要求に応じて映画制作会社を作り、企画がアルモドバルのところに持ち込まれた。そんな体験が、エルネストとレナの関係のヒントになったと見て間違いないだろう。

■■ 女と男 ■■

 アルモドバルの作品といえば、女性の世界という印象が強いが、女性と男性に対する彼の視点は確実に変化してきている。筆者は、『ライブ・フレッシュ』(97)がその分岐点になっていると思う。この映画では、5人の男女が複雑に絡み合うが、彼らの運命の鍵を握るのは明らかに男性であり、アルモドバル自身もインタビュー集で「男の映画」と断言している。

 そしてこの作品以降、彼は男性の存在も重視するようになるが、興味深いのは、男性映画と女性映画のコントラストだ。『トーク・トゥ・ハー』(02)では、昏睡状態にある女性に対する男性の想いが繊細に描き出される。『バッド・エデュケーション』の登場人物は、ほとんど男性で占められている。

 一方で、それらの作品の前後に作られた『オール・アバウト・マイ・マザー』や『ボルベール<帰郷>』では、これまで以上に徹底して女性の存在が突き詰められていく。『オール・アバウト・マイ・マザー』では、登場人物がほとんど女性で占められている上に、ヒロインであるマヌエラの夫も、エステバンからロラという女性になっている。『ボルベール<帰郷>』(06)では、男性は三世代に渡って女性たちを傷つけるだけの存在で、すぐにあっさりと殺されてしまう。

 アルモドバルは、女性と男性を交互に見つめることによって双方に対する視野を広げ、理解を深め、より豊かな表現力を身につけてきた。『抱擁のかけら』には、その成果が見られる。なぜならこの映画では、レナとハリー(マテオ)という女性と男性の双方から彼らの生き方が掘り下げられているからだ。

■■ 死、そして再生 ■■

 『ライブ・フレッシュ』以後の作品については、死というものに対するアルモドバルの視点にも注目する必要がある。『ライブ・フレッシュ』には、主人公ビクトルにとって母親的な存在だったクララの死があり、『オール・アバウト・マイ・マザー』には、マヌエラの息子の死があり、『トーク・トゥ・ハー』には、女性闘牛士リディアや看護師ベニグノの死があり、『バッド・エデュケーション』には、主人公の幼なじみの死がある。だが、それらの死は、決して喪失や終わりではなく、個人という枠を超えて新しい愛や命や女性の連帯に繋がっていく。

 そして、『抱擁のかけら』でも、レナの死によって終わった愛が、個人の枠を超えて再生を果たす。素晴らしいのは、レナとマテオの愛と彼らの映画が、見事に重ねられていることだ。レナは事故で、映画は最悪の編集によって命を奪われた。アルモドバルは、それらをひとつの死と見ようとする。だから、映画が蘇るとき、失われた愛もまた蘇るのだ。

 最後に、細かいことではあるが、筆者は、アルモドバルがこの映画で、ハリー・ケインという名前を使っていることにも興味を覚える。先述のインタビュー集で、偽名で映画を撮りたいと思ったことがないかと尋ねられた彼は、このように答えている。「あるよ。何度もね! (中略)名前も考えた。ハリー・ケインというんだ。速く言うと、「ハリケーン」になる!」。アルモドバルは、自己逃避したハリーがマテオとして復活する物語を通して、自分が監督してきた作品の重みと、自分がアルモドバル以外の何者でもないことを確認しているようにも思えてくる。

 
《参照/引用文献》
『ペドロ・アルモドバル 愛と欲望のマタドール』フレデリック・ストロース●
石原陽一郎訳(フィルムアート社、2007年)

(upload:2010/07/01)
 
 
《関連リンク》
ペドロ・アルモドバル01 ■
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『抱擁のかけら』 レビュー02 ■

 
 
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