『パブリック・アクセス』と『ユージュアル・サスペクツ』という2本の映画では、『マルコヴィッチの穴』におけるスパイク・ジョーンズとチャーリー・カウフマンの関係と同じように、ブライアン・シンガーの演出以前にクリストファー・マックァリーの脚本が、独自の世界を構築するのに大きく寄与していた。
それだけに、マックァリーが脚本のみならず監督にも進出した『誘拐犯』で、一体どんな手腕を見せるのか興味津々だったが、彼は映像でも独自の表現を打ち出していた。しかも、映画化にこぎつけようと腐心していたアレキサンダー大王の企画が受け入れられず、それならということで作った作品でありながら。
食い詰めた流れ者のロングボーとパーカーは、病院でうまい話を耳にし、大富豪の子供を身ごもった代理母を誘拐して、1500万ドルの身代金を要求する。その大富豪が犯罪組織の一員であるとも知らずに…。
この誘拐をきっかけに、大富豪を取り巻く彼の妻、代理母のボディガードや主治医、トラブルの掃除屋のなかから、秘密や裏切りなどが次々と浮かび上がってくる展開は、まさにマックァリーの得意とするところである。しかしこの映画に、『パブリック〜』の謎の男ワイリーや『ユージュアル〜』のカイザー・ソゼに相当する人物は登場しない。マックァリーは、集団のなかに錯綜する思惑につけ込み、操るような虚像の力学とはまた違った視点で、個人と集団の相克を浮き彫りにしていく。
彼のこだわりは、誘拐犯の名前や映画の題名に現れている。ロングボーとパーカーは、『明日に向かって撃て!』に描かれたブッチとサンダンスの本名から引用されている。そして原題は"The Way of the Gun"。この二人組は銃の道を生きる無法者であり、それ以上でも以下でもない。
この映画のアクションが新鮮なのは、そんな彼らの一貫した姿勢が視覚的に巧みに強調されているからだ。
銃の道を生きる彼らの視野や意識は、銃の射程に等しい。代理母を誘拐しようとしてボディガードとにらみ合うときも、車で追ってくるボディガードを路地で罠にはめるときも、メキシコとの国境にあるモーテルの前で掃除屋と話をするときも、ドアの向こうから代理母に発砲されるときも、モーテルの前に現れたボディガードを狙撃するときも、画面を支配しているのは、まず何よりも射程内にあることの緊張である。
彼らはこの限られた視野のなかで、状況に反応し、即座に判断を下していく。視野の外にある集団のドラマなど、文字通り眼中にない。誘拐や銃弾がいかなる事態を招き、自分たちがどう関与しているのかも定かでないまま、ただ身代金を得るために銃の道を歩み、最終的には射程内で踊らされる。皮肉にも、集団のなかのせめぎあいが、そのまま彼らを追いつめる罠となるのだ。そんな銃の道と外部のドラマの食い違いこそが、この映画独特のリアリティを生みだしているのだ。
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