クラウス・ハロ監督のフィンランド映画『ヤコブへの手紙』では、わずか3人の登場人物で深みのあるドラマが生み出される。
刑務所を出たものの身寄りのない女性レイラは、仕方なく所長の勧めに従い、盲目の牧師ヤコブが住む老朽化した牧師館で働くことにする。彼女の仕事は、郵便配達員が届ける相談や悩みの手紙を読み、返事を代筆することだ。心を閉ざし、他人を寄せ付けない彼女は、そこに長居をするつもりはない。だが、ある日を境に便りがばったり途絶えてしまう。手紙を生き甲斐にしていた牧師は孤独と絶望に苛まれ、レイラは彼を放っておけなくなる。
この監督の美学は、何を描くかではなく何を描かないかを強く意識した表現に表われている。描かないことが謎に繋がり、観客の想像力をかき立て、その解釈によってドラマがまったく違ったものになるということだ。
筆者が注目したいのは、レイラが来てしばらくしてから郵便配達員が牧師館に忍び込み、警戒心の強い彼女に取り押さえられ、すごすご退散するエピソードだ。彼の目的は何だったのか。最初は牧師を心配して様子を探りに来たように見える。しかし、彼の自転車が新しくなっていることを踏まえると、牧師館にある金を黙って拝借しているとも考えられる。
さらに、こんな想像も成り立つ。牧師のベッドの下にはこれまでに届いたたくさんの手紙が積まれていて、彼はそれを取りに来た。実は以前から手紙はほとんど来なくなっていて、郵便配達員が過去の手紙を密かに持ち出し、再利用して届けていたということだ。そう考えると、牧師が何度も手紙を寄こす差出人を覚えていたり、手紙がばったり途絶えるのも頷けるだろう。
但し、彼の目的がひとつだったとは限らない。ひとつを選べば、彼は単純に善人か悪人ということになるが、金を拝借する代わりに手紙を再利用していたと考えれば、より興味深い人物になる。
郵便配達員も牧師もとても孤独で弱い人間であり、彼らが暗黙のうちに依存しあうことが結果的にレイラを招き寄せ、それぞれに心を開いていく。そんな巡り合わせに何か超越的な力が働いているように感じられるところに、このドラマの奥深さがあるのだ。
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