但し、この映画の場合には、ファンタジーの要素はあってもどこかに明確な他界が準備されているわけではないし、そもそも知世子は人間や大人を否定し、前に進む意思もなく、自らチョコリエッタになり、戻る必要もないと思っている。にもかかわらず、ドラマに盛り込まれた様々な要素が絡み合うとき、そこに他界が切り拓かれ、物語がイニシエーションとして完結するところに、大きな魅力がある。
この映画でそんな他界の入口となり、様々な要素を結びつける要となるのが、フェデリコ・フェリーニの『道』だ。知世子と愛犬の関係や運命は、元をたどればすべて母親が『道』を好きだったことに起因している。ジュリエッタを亡くした知世子が、もう一度『道』を見ようとしなければ、正宗と再会することもなかった。そんなふうに『道』が死者と生者を結びつけ、その境界を曖昧にする。さらに、正宗も死者と無関係ではない。彼が撮りためた映像を編集するばかりで、完成させられないのはなぜか。それは祖父の死に対する心の整理がついていないからだろう。
そんなふたりが撮影も兼ねた旅に出て、『道』のジェルソミーナとザンパノの大道芸を再現する姿は非常に興味深い。なぜなら『道』でジェルソミーナは死ぬ運命にあり、この旅のなかでチョコリエッタが死に、知世子として再生することを予感させるからだ。しかしそれは、あくまで筋書きに過ぎない。風間監督はそんな筋書きをただなぞるのではなく、現実へと引き込みながら他界を切り拓く。
チョコリエッタは旅のなかで正宗に、山には行かないと約束させる。この「山」という言葉は筆者に、死者の霊魂は山に行くという「山中他界観」を思い出させる。もしふたりが山を迂回して海にたどり着けば、イニシエーションにはならなかっただろう。だが、3・11で変貌を遂げた世界が避けて通れない道のように彼らを他界に導き、チョコリエッタはそこで死者に出会う。その結果は、ジュリエッタの犬小屋を焼くという儀式にはっきりと表れる。
それは、喪が明けることだけではなく、犬となったチョコリエッタの時間が終わることも意味する。そして、知世子が再生を果たし、正宗が作品を完成させ、彼らは自分と世界を肯定して未来に向かって歩み出すことになる。 |