十歳の千尋と両親は、引越しの途中で道を間違え、奇妙な町に迷い込む。そこは八百万の神々が日頃の疲れを癒す湯治場で、人間が入ることは許されない。千尋は名前を奪われて“千”となり、生き延びるために働くことになる。
『千と千尋の神隠し』は、宮崎監督の前作『もののけ姫』と見事に対照的な作品だ。『もののけ姫』は強引に絶対的な世界を構築しようとして、現実遊離し、破綻をきたした。『千と千尋の神隠し』でヒロイン千尋が迷い込む異世界は、西洋の魔女が経営し、日本の神々をもてなす和洋折衷の油屋を筆頭に、設定や造形など雑多な寄せ集めのファンタジーに見える。しかしこれは、現実世界を徹底的に異化した世界であり、そのスタンスは挑発的ですらある。
千尋の両親は、過去も未来もなく、画一化された郊外住宅地に引っ越そうとしている。そんな彼らの目には、この異世界はバブル時代の遺物であるテーマパークとしか映らない。彼らには未知なるものはすべて消費の対象でしかない。だからブタに変えられる。というよりも異世界のなかで、その真の姿を露にする。消費の果てに自らも消費される運命は、現代そのものなのだ。一方、異世界にある油屋もまた、神々をもてなすとはいえ、そこには信仰のかけらもありはしない。経営者である魔女は利潤の追求に邁進し、使用人たちも完全に物欲にとり憑かれている。
しかし油屋が和洋折衷であることは、千尋にとって大きな意味を持つ。彼女は強制的に名前を奪われるわけではない。そこでは働く意思を示し、労働に励めば、生き延びることができる。だから千尋は、書面に自ら署名し、魔女と労働の契約を結ぶ。これは西洋的な個人と個人の契約であり、和洋折衷の設定が生きることになる。
この契約で興味深いのは、千尋が“千”にされ、契約の完全な奴隷となってしまえば、自分が千尋=人間であることを忘却していくことだ。この千とは、両親がブタであるのと同じように、この時点における彼女の真の姿だといえる。これから郊外住宅地に暮らし、歴史も伝統も喪失し、消費することしか教えられない両親に育てられていくことは、千になっていくことと何ら違いがないからだ。しかしいうまでもなく、個人と個人の契約にはもうひとつの効力がある。千尋は千にされてしまうものの、両親の庇護から解かれ、世界や他者と自己の境界が明確になっていく。 |