『ニルヴァーナ』が日本で公開される前にガブリエーレ・サルヴァトーレス監督に電話インタビューしたとき、彼は次回作としてアミタヴ・ゴーシュの『カルカッタ染色体』の映画化を進めると語っていた。残念ながら、この企画は実現しなかったようだ。
コンピュータ・ウイルスやマラリアの感染のメカニズムから独自のヴィジョンが切り拓かれる『ニルヴァーナ』や(実現しなかった)『カルカッタ染色体』と、それ以前の『マラケシュ・エクスプレス』や『エーゲ海の天使』の世界には、大きな隔たりがあるように見えるが、彼の視点やテーマは一貫している。それは、サルヴァトーレスがP・K・ディックのファンであることとも無縁ではないだろう。
彼の作品の主人公たちは、戦争や異境、テレビゲームといった非日常的な世界に引き込まれ、揺らいでいく現実に翻弄されたり、異文化に触れることによって、自己を再発見していくことになる。
ニコロ・アンマニーティの同名小説を映画化したこの『ぼくは怖くない』も例外ではない。主人公の少年ミケーレは、南イタリアにある民家がたった5軒という貧しい集落に暮らしているが、彼の眼前には、陽光を浴びて黄金色に輝く麦畑がどこまでも広がっている。
ところがある日、ミケーレは廃屋の裏にある穴のなかに閉じ込められた少年を発見する。一方、集落では彼の父親とその仲間たちが、テレビのニュースに見入り、何かの計画をめぐって激しく言い争っている。
そこで思い出されるのは、イタリアのなかで経済的にも文化的にも北部の下位に置かれてきた南部の貧しいイタリア人のことだ。その背景は、南北問題という観点から南部の現実を浮き彫りにしたジョルジョ・ボッカの『地獄』やクラウディオ・ファーヴァの『イタリア南部・傷ついた風土』で明らかにされている。
ボッカが『地獄』で書いているように、イタリアにはほとんど交流することのなかった二つの歴史があり、その深い溝が封建制度に縛られた南部を歪めることになった。「南イタリアでは国家は何か外国のように、敵方のように存在してきた」。「何百万という農民が都市に流入しながら、働くべき産業がないまま、国家の助成金で生きるほかなくなり、公的資産の分配の流れにはまりこみ、国家に雇われたという形を取ったり、マフィア的経済に頼る形になったりする」
ナポリ出身のサルヴァトーレスにとって、それは身近な現実であるはずだ。この映画に登場するミケーレの父親とその仲間たちは、国家にもマフィア的経済にも頼れなかった人々といってよいだろう。ということは、彼らもまた穴に閉じこめられ、もがいていることになる。もちろん少年ミケーレは、そんな現実を知るよしもないが、穴のなかに少年を見つけたことでその世界は決定的に変わることになる。
深い穴の暗闇で自分がもう死んでいると思い込んでいる少年は、ミケーレを守護天使と呼ぶ。ミケーレはそんな少年を現実に呼び戻そうとするが、その現実は揺らぎ、日常は彼を閉じ込める穴と化す。そして、穴のなかの少年が逆にミケーレの守護天使ともなる。 |