ドゥニアは賢いが、一度キレると歯止めがきかない。彼女はレベッカに取り入るときにレベッカの手下の売人サミールの恨みを買う。サミールを尾行して、麻薬の隠し場所からそれを奪い、レベッカに差し出し、自分ならもっと上手くやるといって彼女に取り入り、彼の面子を潰したからだ。サミールはその報復として、奔放なレベッカの母親を誘惑し、レベッカはふたりが寝ているのを目の当たりにする。激昂した彼女は、サミールの母親の車に火を放ち、駆け付けた警察を挑発する。ムスリムで、しかも呪術も信じているマイムナは、暴走するレベッカになんとかブレーキをかけようとするが、自分も巻き込まれていくことになる。
どん底の生活を送るドゥニアには、ロールモデルとなるような人間が存在しない。母親は酒浸りで自堕落な生活を送っている。ドゥニアは、学校の授業で受付係になるための指導をする女性教師を軽蔑し、屈辱する。偉そうに指導しても、彼女たちには機会が奪われ、稼げないことがわかってしまっているからだ。彼女がロマのキャンプから抜け出すためには、レベッカをロールモデルにするしかない。
ただし、ロールモデルとなり得る人物がまったく登場しないわけではない。万引きしたものを売りさばくドゥニアとマイムナは、地元にある劇場のキャットウォークをたまり場にし、ダンサーたちの練習を密かに見下ろしている。ドゥニアは、そのなかのひとり、モールで警備員として働きながらプロのダンサーを目指すジギに惹かれる。彼は、恋愛の対象であるだけでなく、ロールモデルになり得る。実際、ドラマでは、ダンスに専念するジギと売人としてのし上がるドゥニアが対比するように描かれている。だが、ドゥニアには彼をロールモデルとして見ることができない。
ベニャミナ監督の両親は、1970年代半ばにフランスにやってきた。彼女は、ふたつの文化の狭間に置かれている現代のアラブ系フランス人の若者について、このように語っている。
「価値観の欠如、精神性や、若者たちのルーツである文化に対する理解や知識の欠如。そうした無知や帰属感の欠如がモンスターを生み出す。なぜなら、彼らが生きる社会、彼らが自分たちの国と考える世界、彼らはそうしたものから拒絶されているように感じ、新たなアイデンティティを作り上げる。それは、抵抗のアイデンティティのようなもので、パンク・ムーヴメントと比較することもできる」
ベニャミナ監督によれば、本作の出発点は、ラジ・リ監督の『レ・ミゼラブル』と同じように、2005年に起きたパリのバンリューにおける移民の暴動にあるという。その事件の後でなにも変わることはなく、むしろ状況は悪化し、人々はより貧しくなり、ロマのキャンプに追いやられることになった。
ロールモデルが見出せず、帰属感の欠如ゆえに幻想に溺れ、マイムナも巻き込んで悲劇的な結末を迎えるドゥニアの運命には、不平等な社会に対する抵抗の意味も込められている。 |