天空のからだ
Corpo celeste  Corpo celeste
(2011) on IMDb


2011年/イタリア=スイス=フランス/カラー/カラー/100分/ヴィスタ/ドルビーデジタル
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(初出:)

 

 

レッジョ・カラブリアという檻にとらわれた人々
セメントで隠された大地=天体の上に立つ少女

 

 イタリアの新鋭女性監督アリーチェ・ロルヴァケルの長編デビュー作『天空のからだ』(11)は、ヒロインである13歳の少女マルタと姉、母親がスイスから10年ぶりに南イタリアのレッジョ・カラブリアに戻り、新たなスタートを切るところから始まる。マルタはカトリックの堅信式を受けるために、教会の日曜学校に通うが、新たな環境に馴染めず孤立していく。

 監督が女性で主人公が少女であれば、自伝的な作品であることも少なくないが、この映画の場合は違う。ロルヴァケルは中部のトスカーナ州フィエーゾレで生まれ、同じく中部のウンベルト州カステル・ジョルジョで育ち、カトリックの教育も受けていない。

 この映画では、レッジョ・カラブリアという舞台が重要な意味を持っている。映画の冒頭では、屋外で開かれた教会の行事に、マルタの一家が参加する。私たちはその荒涼とした風景に違和感を覚える。場所は、高速道路の高架下、水が枯れた川床で、周囲にはゴミが散乱している。その後のドラマでも、老朽化した建造物や統一性を欠いた街並み、不法投棄されたゴミなど、殺伐とした景観が目につく。マルタは自分が暮らす集合住宅から、少年たちが道路脇に投棄された古い家具を物色し、運んでいく姿を見つめる。

 ジョルジョ・ボッカの『地獄 それでも私はイタリアを愛する』やクラウディオ・ファーヴァの『イタリア南部・傷ついた風土』に詳しく書かれているように、レッジョ・カラブリアはそこを拠点とするマフィアのひとつ“ンドランゲタ”によって長年にわたって支配されてきた。この映画にはマフィアが出てくるわけではないが、『イタリア南部・傷ついた風土』の以下のような記述を踏まえると、登場人物たちがその遺産のなかで生き、とらわれていることがわかるはずだ。長い引用になるが、この映画から浮かび上がる風景が気になった人は興味深く思えることだろう。

「レッジョ・カラブリアに運命づけられたものはたとえば、不法建築だ。それは家を建てに帰る移民や、都市への移住の流れを生み出すには貧困で古すぎる街に昔からつきものの病のような不法建築とは違う。レッジョ・カラブリアの不法建築は別物だった。ビジネスと転移、略奪と狂気の場だった。都市の中にある都市、目には見えないが現実の街だった。十八万の無駄な不法建築があり、一千三百万立方メートル、四十ヘクタールの平野や公共緑地帯はセメントで固められた。その必要があったのか? 生命力のある空間を探求してのことか? 今日、国勢調査をおこなえばレッジョには五十万の住民を受け入れることができるだろう。実際の人口の三倍以上である。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   アリーチェ・ロルヴァケル
Alice Rohrwacher
撮影 エレーヌ・ルバル
Helene Louvart
編集 マルコ・スポレンティーニ
Marco Spoletini
音楽 ピエロ・クリチッティ
Piero Crucitti
 
◆キャスト◆
 
マルタ   イレ・ヴィアネッロ
Yle Vianello
マリオ神父 サルヴァトーレ・カンタルーポ
Salvatore Cantalupo
サンタ パスクアリーナ・スクンチャ
Pasqualina Scuncia
リタ アニタ・カプリオーリ
Anita Caprioli
ロレンツォ レナート・カルペンティエリ
Renato Carpentieri
フォートゥナータ パオラ・ラヴィーニ
Paola Lavini
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(配給:)
 

 その結果、美的感覚に欠けた都市ができあがった。法律では市民一人あたり十八平方メートルの緑地帯が得られるはずだったが、結果は八十平方センチメートル。海岸線からアスプロモンテの斜面まで切れ目もなく連なるコンドミニアムや庭付き一軒家の街。南部の不法建築による不安定さをレッジョはもち続けている。あらゆる認可を待つハンカチ一枚分の土地を決定的に占拠するのに必要なため、鉄筋コンクリートや赤レンガの骨組みだけができて完成することのない家。地区全体がこんな風に道も下水道もなく、石の上に発展してきた。最後には、街という考え方そのものがゆがめられた。レッジョには中心地も郊外もなく、あるのは武装されたセメントの長い跡だけ。国家までが不法建築に関わった。公共緑地に向けられるべき街の中心地に県庁を建てたのだ。港湾監督事務所は直接海の上に造られた。裁判所もそうだ。元の古い建物の上に増築して拡張する必要があったが、外庭を塞ぎ、脇に二つのセメントの平行六面体をくっつけることに決めたのである。それも不法だった。

 必要な不法建築ではなかった。資金を循環させ再投資するのに最も適した市場を建築土木の分野に見出したンドランゲタによって、レッジョはセメントで固められた。ジョイア・タウロのオリーブ園や庭をわずかな金でかき集めたように。それは、反マフィア委員会の記録にも現れる有名な話だ。その話が最後に出てくるのは九三年秋、判事や行政官、政府関係者が尋問をおこなったときだ。終わりのほうにこう書かれている。『レッジョ・カラブリアはマフィアが建築土木をおこなう都市である』」

 この映画に描かれるレッジョ・カラブリアは、一見、宗教色の強い土地のように見えるが、それはあくまで表面的な世界だ。この映画では、マリオ神父と教会の教育係の女性サンタ、そして少女マルタという3人の人物が対置され、彼らと風景の関係が興味深いものになっていく。

 マリオ神父やサンタは信仰に忠実に生きているわけでも、情熱を燃やしているわけでもない。彼らは、この檻のような都市のなかに神がいないことを知っている。だから個人の欲望を満たそうとする。マリオ神父は選挙運動に深く関わることで出世をもくろんでいる。彼の携帯には頻繁に連絡が入り、彼はその対応に追われつづける。サンタはポップな歌やクイズまで作って子供たちの教育に励んでいるように見えるが、彼女を駆り立てているのは、マリオ神父への好意であり、彼の移動の話を耳にするといてもたってもいられなくなる。彼らは、都市によって形作られ、支配されているといえる。

 これに対して、次第に孤立していくマルタは、人工物からなる都市の外部へと踏み出し、セメントで隠された大地を見出していく。彼女は、十字架のイエスが口にしたと伝えられる「Eli, Eli, Lema Sabachthani? (神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや)」という言葉に引きつけられ、その意味を知って心を揺さぶられる。その言葉は、セメントで固められた大地にこそ相応しい。マルタが口にするその言葉は呪文のような力を発揮し、十字架のイエスが自然へと還ることになる。

 この映画のタイトルは、“天体”を意味している。ロルヴァケルはどこかのインタビューで、私たちは天体が空の上にあるものだと思い込み、自分たちがその上で生きていることを忘れている、というように語っていた。それを踏まえるなら、マルタは外部へ踏み出し、天体の上に立つことになる。ロルヴァケルは、レッジョ・カンブリアという土地を独自の視点で切り取り、少女のイニシエーション(通過儀礼)を実に鮮やかに描き出している。

《参照/引用文献》
『地獄 それでも私はイタリアを愛する』ジョルジョ・ボッカ●
千種堅訳(三田出版会、1993年)
『イタリア南部・傷ついた風土』クラウディオ・ファーヴァ●
中村浩子訳(現代書館、1997年)

(upload:2015/04/28)
 
 
《関連リンク》
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マッテオ・ガッローネ 『ゴモラ』 レビュー ■
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