イタリアのローマ郊外にあるレビッビア刑務所では、囚人たちによる演劇実習が定期的に行われている。毎年様々な演目を囚人たちが演じ、所内にある劇場でその成果を一般の観客に披露するのだ。囚人たちを指導している演出家ファビオ・カヴァッリは、今年の演目がシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」であることを告げ、オーディションが行われ、稽古がはじまる…。
タヴィアーニ兄弟の新作『塀の中のジュリアス・シーザー』では、本物の刑務所で実際の囚人たちがシェイクスピア劇を演じる。しかし、これはドキュメンタリーではない。兄弟が演目として「ジュリアス・シーザー」を提案し、脚本を書いている。
実際に作品を観ると、そこに様々な計算が働いていることがわかるだろう。所内にある劇場が改修中であるため、オーディションで選ばれた囚人たちは、舞台ではなく所内の様々な場所で稽古をする。タヴィアーニ兄弟は、監房や廊下、遊技場などで台詞を繰り返す囚人たちを巧みなカメラワークでとらえていく。
この映画には、三つのポイントを挙げることができる。まず、演じる囚人たちが「何者」なのかということだ。兄弟は以下のように語っている。
「後に我々は、彼らがカモッラ、ンドランゲタなどのマフィアに属していた重犯罪者たちで、重警備棟に収容され、ほとんどが終身刑に服していることを知りました」(プレスより)
次に「演目」だ。そんな囚人たちになにを演じさせるのか。彼らの過去と「ジュリアス・シーザー」という演目は無関係ではない。とりあえず兄弟の言葉を引用しておこう。
「まず考えたことは、我々が一緒に取り組もうとしている人たちは遠かれ近かれそれぞれの過去を抱えています。悪事、過ち、犯罪、人間関係の破綻などによって形成された過去です。故に、彼らに立ち向かわせるための、逆方向でありながら、彼らの過去と同じぐらい力強い物語が必要だったのです」(プレスより)
かつて囚人たちが属していた組織の犯罪にも、「ジュリアス・シーザー」にも、権力、友情、裏切りがあるという言い方もできるが、筆者が強調したいのは、どちらも“男同士のホモソーシャルな関係”が鍵を握っているということだ。
そしてもうひとつのポイントは「方言」だ。囚人たちは稽古に先立って、それぞれに自分の方言で台詞を言うように指示される。たとえばジョルジョ・ボッカは『地獄 それでも私はイタリアを愛する』のなかで、カモッラが「大都会で機能している唯一の職業安定所」であるとか、「ナポリでは政治とカモッラを識別するのは難しい」と書いている。
クラウディオ・ファーヴァの『イタリア南部・傷ついた風土』にも詳しく書かれているように、イタリアでは南北の間に深い溝があり、そんな背景が地域と犯罪組織の密接な結びつきを生み出している。囚人たちがそれぞれの方言を使うことは、地域に対する意識や個人的な感情を増幅させることにもなるだろう。 |