アレクサンドル・ソクーロフの『太陽』を観ながら、筆者の頭にすぐに思い浮かんできたのは、フィリップ・K・ディックの代表作『高い城の男』だった。昭和天皇を題材にした映画に対して、いきなりSF小説などを持ち出したりすると、一体何を考えているのかと思われそうだが、筆者のなかではふたつの世界が自然に結びつき、映画が終わる頃にはこの小説のことが頭から離れなくなっていた。
『高い城の男』には、第二次大戦の勝敗が逆転した世界が描かれている。戦後15年、世界はドイツと日本に支配され、小説の主な舞台となるサンフランシスコは、アメリカ太平洋岸連邦の一都市として日本の勢力下に置かれている。だが、このもうひとつの戦後世界は、複数の登場人物たちが入り組む物語のなかで微妙に揺らいでいく。
巷には、謎の作家が書いた『イナゴ身重く横たわる』という小説が流布している。そこには、第二次大戦で連合国側が勝利した世界が描かれている。この小説を手にした人間は、本当に起こったことのような物語のリアリティに引き込まれ、続きを読まずにはいられなくなる。
つまり、登場人物たちは、確固とした歴史ではなく、揺らぐ歴史のなかを生き、彼らを取り巻くものの史実性にすがりついたり、逆にそれを疑いながら、ほんの少し先の未来の選択を迫られていく。そして、『太陽』にもそんな揺らぎが確かにある。ソクーロフの『モレク神』で、ヒトラーの前にあるのは、彼の歴史の崩壊以外の何ものでもなかったが、『太陽』の昭和天皇は、揺らぐ歴史のなかに身を置いている。
この映画には、退避壕のなかで、侍従長に導かれる天皇が袋小路にぶつかる場面があるが、この迷路のような退避壕は、彼の心象風景のようでもある。そこで道に迷い、違った扉を開けば、もうひとつの歴史に踏み込んでいるかもしれないのだ。
では、そのような状況に追いやられた人間(あるいは現人神)は、何を思い、どんな行動をとるのか。その点でも、『太陽』と『高い城の男』は、深い結びつきを持っている。揺らぐ歴史のなかでそれぞれに孤立していく『高い城の男』の登場人物たちは、まず『易経』による占いに啓示と救いを求める。占いの結果あらわれる形、すなわち卦から世界の変化を読み、吉凶を判断しようとする。
さらにディックは、形を通して易経にも通じるガジェットを登場させる。それは、渦巻きや螺旋など融けた金属が自然にとる形を取り入れたアクセサリーだ。日本人のエリート官僚は、それを見てこう語る。「この物体は宇宙と仲よく共存している」、「史実性を持たず、なんの芸術的、審美的価値も持たず、しかもある霊妙な価値を備えている―これは脅威です」 |