原作を読んでない人にはそんな人物関係が分かりづらいかもしれないが、ソクーロフは、キャラクターで物語を語ろうとはしていないので、問題はないだろう。また、エマを演じるセシル・ゼルヴダキは、原作のエマのように美しくはないが、それも問題ではない。
この映画でまず印象に残るのは、エマの裸体であり、その背景となる自然と人工の対比だ。エマとロドルフは乗馬をきっかけに接近する。ふたりは馬で草原に行き、そこで全裸で交わる。ロドルフの思惑がどうであれ、エマの裸体は自然のなかで愛を感じている。だが、その自然は、すぐに失われていく。
シャルルが薬剤師オメーにそそのかされて試みる新しい治療法のエピソードとエマとロドルフの密会のエピソードが交互に描かれる場面には注目すべきだろう。シャルルとオメーは、足が変形している番人の男を強引に説得し、箱型の矯正器具を足にはめて、変形を治そうとする。だが治療は失敗し、番人は壊疽になり、切断を余儀なくされる。一方、ロドルフに激しく迫るエマは、愛し合わなければ自然が死に絶えてしまうと主張する。だがロドルフは、彼女の言葉に耳を傾けることなく去っていく。
この映画のなかのエマ、あるいは彼女の裸体は、矯正器具をはめられた番人の足に等しい。エマがいくら自然のなかでありのままの姿になることを求めても、ルウルーから届けられる服や装飾品に縛られていく。彼女はレオンとの再会を喜ぶが、ふたりはけばけばしく装飾された部屋で密会せざるをえない。借金の返済に窮した彼女が、ロドルフに救いを求めようとするとき、ふたりの背後では巨大な機械がうなりをあげている。エマは、人工的な力によってねじ曲げられ、押しつぶされていく。
映画の冒頭に流れる厳かな音楽の響きは、この映画がエマへのレクイエムであることを示唆している。エマとシャルルが食事をする場面では、たくさんの蝿が飛び交い、エマとレオンが密会する場面でも、羽音が彼らにまとわりつく。エマはこの映画が始まったときからすでに腐敗しつつある。そんなヒロインの遺体は、彼女の希望によって、樫とマホガニーと鉄製の三つの棺のなかに納められる。彼女は自分の肉体を三重に封印することで、逃れられない世界から逃れようとしたと見ることもできる。
ソクーロフは、ペレストロイカやグラスノスチからソ連崩壊に至る激動の時期のこの映画を作った。彼がどんな思いでこの映画を作ったのかは定かではないが、フローベールの原作と同じように、この映画にも多様な解釈を可能にする奥深さがある。 |