デヴィッド・O・ラッセル監督の『スリー・キングス』は、湾岸戦争の停戦直後、砂漠地帯にある多国籍軍のベースキャンプで、4人の米兵が、クウェートから奪われた大量の金塊の隠し場所を示す地図を発見するところから物語が動き出す。
バラ色の未来を夢見て宝探しに乗りだした彼らだったが、その先には思わぬ展開が待ち受けている。アメリカ軍の支援を信じて蜂起したシーア派のイラク人が孤立し、殺されかけているとなれば、見て見ぬふりはできないだろう。
そんな展開については少し補足しておくべきかもしれない。ここらへんの事情は、アンドリュー・コバーン&パトリック・コバーンの『灰の中から――サダム・フセインのイラク』などに詳しい。
湾岸戦争は、勝てない戦争をはじめたサダムに対するシーア派やクルド人の恨みが噴き出す契機となった。サダム軍は敗走しただけではない。シーア派の拠点である南部では反乱が起こった。それは自然発生的なものだったが、北部ではクルド人たちが計画的に決起した。この反乱によって、サダムはイラク18州のうち 14州でその支配力を失うことになった。
しかし、風向きが変わった。ワシントンとロンドンの多国籍軍のトップは、そんな惨状にあってどんな指導者も生き残れないと安心してしまった。一方では、イランとの国境に近い地域で、イランの故ホメイニ師のポスターが登場するようになったことに敏感に反応した。さらにサダムも機に乗じて反乱のイラン的な要素を宣伝した。そんなふうにして多様な背景を持つ人々による反乱は、イスラム革命志向にすりかえられ、米軍の動きがにぶり、形勢が逆転した。そして、反乱勢力に対して冷酷な制裁が加えられ、多大な犠牲者を生み出すことになった。
この映画の主人公たちはそんな不条理を目の当たりにする。ここらへんの展開には、若き日のラッセルを思い出させるものがある。彼は80年代初頭、大学の同級生たちがそろってヤッピー化していくなかで、自前の平和部隊としてひとりニカラグアに赴くなど、政治的な活動をしていた時代がある。
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