アメリカの災難
Flirting with Disaster  Flirting with Disaster
(1996) on IMDb


1996年/アメリカ/カラー/93分/ヴィスタ/ドルビーSR
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(初出:『アメリカの災難』劇場用パンフレット、若干の加筆)

 

 

アメリカを縦断し、歴史に引き込まれ、
アイデンティティを探す可笑しな冒険譚

 

 デイヴィッド・O・ラッセル監督の『アメリカの災難』は、登場人物たちのキャラクターや設定などが実に緻密に練り上げられたコメディだ。この映画では、主人公メルが実の親を探す旅を通して多くの人物が入り乱れるが、その人物たちは一見さり気ない演出のなかでそれぞれにとても象徴的に描かれている。

 たとえば主人公のメル。彼は養子で、ニューヨークに暮らすアッパーミドルのユダヤ系夫妻に育てられた。結婚して子供が生まれた彼は、自分のアイデンティティに悩みだし、実の親を探しはじめる。しかし映画は、そんな悩み以前に、彼がこれまで非常に小さな世界で生きてきたことを暗示している。彼の職業は昆虫学者で、妻のナンシーは職場の同僚である。彼が本当の両親について想像をめぐらす場面は、NYの街角を背景に、男女がまるで着せ替え人形のように描かれ、広がりや生気に欠けている。養父母から車の追突強盗の話を聞かされるとそれを真に受け、恥をかくことになる。

 要するに彼は、自分の近視眼的な世界に閉じこもっている人間で、ひどい世間知らずなのだ。そんな彼が、NYからカリフォルニア、ミシガン、さらにはニューメキシコへと旅するというのは、それだけでも立派な冒険といえる。しかしながら、その冒険は単なる地理的な移動にはとどまらない。監督のラッセルは、様々な登場人物を通して、この地理的な移動を奇妙な歴史の旅に変えてしまう。

 主人公メルが最初に遭遇するのは、サンディエゴに暮らすヴァレリー。メルの一行を迎えた彼女は、壁に飾ったレーガン元大統領の肖像画をさして、「彼は偉大な大統領だった」と語る。レーガンといえば、もともとカリフォルニア州知事で、サンディエゴはお膝元ということになる。ラッセル監督が暗示するのは、彼女が、共和党支持の典型的な保守中流ということだろう。

 レーガンは、こうした中流層に古き良きアメリカ、強いアメリカの復活を印象づけることによって大統領になり、80年代のアメリカを変えた。社会は保守化し、貧富の格差が広がり、拝金主義が蔓延するようになったわけだ。

 ラッセルはそんな80年代を象徴するようなヴァレリーをなかなか皮肉なタッチで描いている。彼女は、メル、ナンシー、ティナの三人と対面したとき、見栄えでティナを夫人だと決めつけ、ナンシーを乳母だと思い込む。また、メルが実子ではないとわかった瞬間に態度ががらりと変わり、Tシャツ一枚ケチるようになるのだ。

 次にメルの一行はミシガンに向かい、父親だと思われるブードローと対面する。彼は、いまはトラックの運転手をしているが、昔はヘルズ・エンジェルズでならしていたらしい。カリフォルニアを拠点にしたこのアウトロー・バイカー集団の栄光の時代といえば間違いなく60年代だろう。彼らは、ロジャー・コーマンの映画やジャーナリスト、ハンター・S・トンプソンの『ヘルズエンジェルズ』などでも脚光を浴び、カウンターカルチャーの象徴に祭り上げられていた。

 保守的な80年代からいきなり60年代カウンターカルチャーに飛んでしまうというのはずいぶん極端な気がするが、ここでラッセルは芸の細かいところを見せてくれる。結局、このブードローもまた本当の父親ではないことがわかり、一行はニューメキシコに向かうが、すぐにトラブルに巻き込まれ、地元の民宿で一泊することになる。ところがその民宿の主である老婆が、フォード大統領と縁があった自慢話を始め、メルを辟易させる。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   デイヴィッド・O・ラッセル
David O.Russell
撮影 エリック・エドワーズ
Eric Edwards
編集 クリストファー・テレフセン
Christopher Tellefsen
音楽 スティーヴン・エンデルマン
Stephen Endelman
 
◆キャスト◆
 
メル・コプリン   ベン・スティラー
Ben Stiller
ナンシー・コプリン パトリシア・アークェット
Patricia Arquette
ティナ・カルブ テア・レオーニ
Tea Leoni
コプリン夫人 メアリー・タイラー・ムーア
Mary Tyler Moore
コプリン氏 ジョージ・シーガル
George Segal
リチャード アラン・アルダ
Alan Alda
メリー リリー・トムリン
Lily Tomlin
-
(配給:松竹富士)
 

 歴代大統領のなかでも影の薄いフォード大統領について自慢話をするのは、いかにもこの偏屈そうな老婆ならではだが、メルの歴史の旅からしてみると、ここでフォードの名前が出てくるのは面白い。というのも、彼は、ウォーターゲート事件で辞任したニクソンに変わって副大統領から大統領になったのであり、ヴェトナム戦争の敗北やウォーターゲート事件で意気消沈した70年代のアメリカを垣間見ることができるからだ。

 そんな70年代を経てメルの一行はいよいよ60年代に突入する。ニューメキシコで出会ったメルの本当の両親は、60年代のドラッグ・カルチャーにどっぷり漬かっていた筋金入りのヒッピーで、父親は当時LSDを大量に製造して投獄されていたのだった。そして、ここまできたところで、この映画は、登場人物だけではなく物語全体が象徴的な意味を持つことになる。

 第二次大戦後のベビーブームで誕生したベビーブーマーたちは、60年代にドラッグの洗礼を受け、大人の世界に反旗をひるがえす。このカウンターカルチャーは70年代には失速し、沈滞の時代を経て、80年代には、加速する消費の時代がやってくる。そして、その80年代から90年代にかけて注目を集めるようになるのが、ベビーブーマーの親たちから誕生したポスト・ベビーブーマー、いわゆるX世代である。ということは、これはX世代の主人公が、自分のルーツを探す物語ということになるわけだ。

 一般にX世代は、ベビーブーマーがドラッグに影響されたようにデジタルカルチャーに影響されているといわれる。それが、この映画の主人公メルに当てはまるのかどうかは微妙だが、生身の人間関係よりも自分の小さな世界にこもっているというところはしっかり共鳴している。

 またもうひとつ、この映画とX世代との関係で興味深いのが、ある種のノスタルジーだ。X世代の名付け親でもあるダグラス・クープランドの小説は、作品を追うごとに、不確かな未来に対して70年代のテレビ番組や映画などへのノスタルジーが強まってきている。この映画でも、メルの養父母と本当の父母役には、60〜70年代にテレビで活躍しお茶の間の人気者だった役者たちが起用されている。監督のラッセルは、あるインタビューでこのふた組のカップルのことを、かつて彼の世代が夢見た両親だったと語っている。

 しかし映画をご覧になればおわかりのように、彼はそれを単なるノスタルジーで終わらせることなく、逆にその偶像を破壊する演出を試みているといえる。そして、それは映画全体にも当てはまる。この映画は、メルの本当の両親探しから始まって、ゲイのカップルが養子をとって家族を作る決心をするまでの物語と見ることもできる。つまり、世の中、血の繋がりがあるからといって確固としたアインデンティティが見えてくるものでもなく、それは、自分の体験(冒険)を通して前向きに選び取っていかなければならないということなのだ。


(upload:2012/12/26)
 
 
《関連リンク》
デイヴィッド・O・ラッセル・インタビュー 『ハッカビーズ』 ■
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