デイヴィッド・O・ラッセル監督の『アメリカの災難』は、登場人物たちのキャラクターや設定などが実に緻密に練り上げられたコメディだ。この映画では、主人公メルが実の親を探す旅を通して多くの人物が入り乱れるが、その人物たちは一見さり気ない演出のなかでそれぞれにとても象徴的に描かれている。
たとえば主人公のメル。彼は養子で、ニューヨークに暮らすアッパーミドルのユダヤ系夫妻に育てられた。結婚して子供が生まれた彼は、自分のアイデンティティに悩みだし、実の親を探しはじめる。しかし映画は、そんな悩み以前に、彼がこれまで非常に小さな世界で生きてきたことを暗示している。彼の職業は昆虫学者で、妻のナンシーは職場の同僚である。彼が本当の両親について想像をめぐらす場面は、NYの街角を背景に、男女がまるで着せ替え人形のように描かれ、広がりや生気に欠けている。養父母から車の追突強盗の話を聞かされるとそれを真に受け、恥をかくことになる。
要するに彼は、自分の近視眼的な世界に閉じこもっている人間で、ひどい世間知らずなのだ。そんな彼が、NYからカリフォルニア、ミシガン、さらにはニューメキシコへと旅するというのは、それだけでも立派な冒険といえる。しかしながら、その冒険は単なる地理的な移動にはとどまらない。監督のラッセルは、様々な登場人物を通して、この地理的な移動を奇妙な歴史の旅に変えてしまう。
主人公メルが最初に遭遇するのは、サンディエゴに暮らすヴァレリー。メルの一行を迎えた彼女は、壁に飾ったレーガン元大統領の肖像画をさして、「彼は偉大な大統領だった」と語る。レーガンといえば、もともとカリフォルニア州知事で、サンディエゴはお膝元ということになる。ラッセル監督が暗示するのは、彼女が、共和党支持の典型的な保守中流ということだろう。
レーガンは、こうした中流層に古き良きアメリカ、強いアメリカの復活を印象づけることによって大統領になり、80年代のアメリカを変えた。社会は保守化し、貧富の格差が広がり、拝金主義が蔓延するようになったわけだ。
ラッセルはそんな80年代を象徴するようなヴァレリーをなかなか皮肉なタッチで描いている。彼女は、メル、ナンシー、ティナの三人と対面したとき、見栄えでティナを夫人だと決めつけ、ナンシーを乳母だと思い込む。また、メルが実子ではないとわかった瞬間に態度ががらりと変わり、Tシャツ一枚ケチるようになるのだ。
次にメルの一行はミシガンに向かい、父親だと思われるブードローと対面する。彼は、いまはトラックの運転手をしているが、昔はヘルズ・エンジェルズでならしていたらしい。カリフォルニアを拠点にしたこのアウトロー・バイカー集団の栄光の時代といえば間違いなく60年代だろう。彼らは、ロジャー・コーマンの映画やジャーナリスト、ハンター・S・トンプソンの『ヘルズエンジェルズ』などでも脚光を浴び、カウンターカルチャーの象徴に祭り上げられていた。
保守的な80年代からいきなり60年代カウンターカルチャーに飛んでしまうというのはずいぶん極端な気がするが、ここでラッセルは芸の細かいところを見せてくれる。結局、このブードローもまた本当の父親ではないことがわかり、一行はニューメキシコに向かうが、すぐにトラブルに巻き込まれ、地元の民宿で一泊することになる。ところがその民宿の主である老婆が、フォード大統領と縁があった自慢話を始め、メルを辟易させる。 |