「うつの問題で私たち全員が行き当たった岐路は重大極まりないものであり、本書では、私たちがここに立ち至った背景や、不幸せに感じるのは病気であるという見方を普通に受け入れるようになった経緯を示していく。いや、それだけではない。私たちはみなさんを説得したいのだ。抗うつ薬とそれが治療する病気について考えなくてはいけないのは、不幸せな気分を解消するために薬を飲むべきかどうかだけではない。不幸せな気分を臨床的うつ病と呼ぶのが、ほんとうにまっとうなことなのかどうかだけでさえない。私たちはいったい何者で、どのような人間になりたいのか、人間であるとはどういうことだと思っているのか――それを考える必要があることを、みなさんにも気づいてもらいたいのだ」
「アメリカは幸福の追求に捧げられた、この世で最初の国であるとトマス・ジェファーソンが宣言して以来、私は十分幸せだろうかという問いは、アメリカ人が内省するときの主題となっている。一方、私が十分幸せでないのは、病気だからだろうかという問いは、過去二〇年ほどの間に出てきたにすぎない。この意味で、うつ病は作られたのだ」
「ある種の苦しみが病気であるというときには必ず、苦しみが存在するという観察の範囲を超えることになる。そして、苦しみは私たちの世界にふさわしくない、苦しみがなければもっと人生が良くなる、私たちは苦しみのない人生を送るべきだと主張するのに等しい。苦しみを症状に変え、症状を病気に変え、病気を治癒すべき異常に変えるとき、医師たちは科学者だけではなく道徳哲学者の役割も担っている。苦しみのもとは根絶するべきだと主張するのは、私たちが送っているべき人生にとってそれが有害であると主張することにもなる」
パットとティファニーは、不幸せで苦しんでいるが、それを病気と判断されてしまうことは、別な意味で不幸なことなのかもしれない。この映画の皮肉なユーモアのひとつは、パットとロバート・デ・ニーロが演じる彼の父親シニアのコントラストから生み出される。
シニアの世界はアメフト中心に動いているといっても過言ではない。彼は、以前にスタジアムで引き起こした暴力沙汰が原因で、出入を禁じられている。頭に血がのぼって手が出てしまうばかりではなく、彼と家族が再出発するために資金まで、ゲームの勝敗に賭けてしまう。うつ病が作られたもので、パットがそこに含まれてしまっただけだとするなら、私たちは、パットよりもシニアの方が病気なのではないかと考えることもできるはずだ。
いずれにしても、パットとティファニーは、ダンスの練習に打ち込むことで、作られた病気の世界から抜け出していく。お互いに哀しみ、苦しんでいることが人間として当たり前のことになっていくといってもいい。
そして、なんといっても素晴らしいのが、クライマックスとなるダンスコンテストだ。参加者たちは、決められた基準で採点される。しかし、パットとティファニーの基準とゴールはちょっと違う。それだけに、あたかも優勝したかのように狂喜するふたりと、狐につままれたような表情をみせる他の参加者たちのコントラストが、この上なく痛快なものになる。
先述したグリーンバーグは同書でこのようにも書いている。「うつ病医と、彼らのスポンサーである製薬会社は、私たちに対して出すぎたことをしてきた。彼らは、人生とは何のためにあるのか、人生について私たちがどう感じるべきなのか、あなたや私と同じ程度しかわかっていないのだから」
パットとステファニーが苦しみと向き合うことは、病気と治癒という二元論から抜け出し、自分の人生を取り戻していくことにも繋がる。私たちはそのことに深く心を揺さぶられるのだ。 |