アメリカ映画界で異彩を放つデイヴィッド・O・ラッセル監督の作品には、政治や社会、宗教、哲学などに関わる深刻な問題意識と奇抜なコメディのセンスが結びついたシュールな世界がある。そんな独特の発想や表現は、彼が文学に強い関心を持っていたこととも無縁ではないだろう。
「もともと物語を作ることが好きだったんだ。作家になりたくて、映画監督になることなんて考えたこともなかった。出版社に勤めていた父親の影響もあったと思う。本の話をいろいろ聞かされ、作家が僕のヒーローになっていった。マーク・トウェイン、フラナリー・オコナー、フィッツジェラルド、サリンジャー、ロバート・ストーン、ピンチョンなどだ。しかし実際にものを書くうちに、思っていたほどの充足感を得られないことがわかり、映画に目覚めた。映画を作ることで、政治とものを書くことが結びつけられるようになった。映画は、ヴィジョンや創造性、リーダーシップを必要とするし、議論やコミュニケーションの場にもなる。ウェス・アンダーソンにも言われたけど、僕は事前にあれこれ計画を練り、実行していくタイプなんだ」
湾岸戦争を題材にしたラッセルの前作『スリー・キングス』は、中東とアメリカをめぐる石油の問題にいち早く注目した作品だった。新作の『ハッカビーズ』でも、エコロジーと開発の対立の背景に石油の問題があり、登場人物のひとりである消防士のトミーは、9・11以来、石油の問題が頭から離れなくなり、自動車に乗ることを拒否している。
「そう、2本の映画は繋がっている。9・11に絡む政治的な質問をされるたびに僕が思うのは、どうして何かが起こらないとそういう質問が出てこないのかということなんだ。『スリー・キングス』のときも、僕は政治的な映画を作ったつもりだったのに、そういうことには目を向けられなかった。僕が9・11以後についてどう思っているのかは、映画のトミーの台詞に集約されている。事件が起きるとみんな5分間は議論するけど、そのあとは忘れてしまうんだ」
社会学者トッド・ギトリンは、『アメリカの文化戦争』のなかで、これまで歴史や伝統、国家、階層といった枠組みに立脚してきた右派が、グローバリゼーションによって人間の共通性を主張するようになり、逆に、これまで人間の共通性を主張してきた左翼が、行き場を失いつつあると書いている。
『ハッカビーズ』のドラマには、そんな現実が反映されている。オタクなエコロジストのアルバートは、彼が始めた環境保全団体の支部長の座を天敵に奪われかけている。その天敵とは、何でも揃うスーパー"ハッカビーズ"のエリート社員で、笑顔と巧みな話術で人々を虜にし、開発を進めるブラッドだ。窮地に立つアルバートには、先述した消防士のトミーが味方になるが、このふたりのリベラルは、正論を唱えれば唱えるほど周囲から孤立していく。
「僕は、上下が逆転することで言葉そのものの力が失われてしまうというジョージ・オーウェルのヴィジョンを信奉しているので、そういうとらえ方はよくわかる。ジョージ・ブッシュが平気な顔をしてわれわれは代替エネルギーを探さなければならない時期にきていると訴える。ほんとにブッシュかよと唖然とするけど、実際に代替エネルギーを探しているわけではない。それが現実なんだ」
しかし、この映画で孤立に追いやられるのはリベラルだけではない。商談のたびに機械のように同じジョークを繰り返すエリート社員のブラッドも、"ハッカビーズ"の顔になっているキャンペーン・モデルのドーンも、奇妙な成り行きで自分と向き合わなければならなくなる。
「僕だって、自分の映画を売るために、こうやって偉そうに喋っている自分が嫌になる。危険なのは、こういうことを繰り返しているうちにその気になり、ほんとに自分が偉いと思い込むことだ。それを避けるために、嫌な人間を演じようと考えたりもする。本音を言えば、こんなことをしていたくないわけだけど、芸術というのはそういう辛辣になる瞬間を作ってくれるものでもある。たとえば、身体を動かしたり、楽器を演奏することは、それを続けるうちに惰性になるけど、もとに戻る瞬間がある。ブラッドやドーンのキャラクターがいい例だ。彼らは映画スターのように魅力的な人間だが、それが全人格ではない。人に好かれることに傾注してしまうと、次がもう何もない状態になってしまうんだ」 |