『闇の列車、光の旅』で長編デビューを飾ったキャリー・フクナガは、筆者が期待する監督のひとりだが、中南米のギャングやアメリカを目指す移民の世界から、いきなりシャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』というかけ離れた題材に挑戦するとは思わなかった。
ジェーン・エアは幼い頃に両親を亡くし、引き取ってくれた伯父も亡くなり、その妻と息子にひどく苛められる。寄宿学校では教師たちから不当な扱いを受け、初めてできた友達は病でこの世を去ってしまう。
卒業したジェーンは、母校で教師を務めたのち、由緒正しいソーンフィールド館の家庭教師となる。そしてロチェスターに出会う。ふたりは互いに惹かれ合い、ロチェスターは身分の違いを越えてジェーンに求婚する。だが、初めて愛した男には恐ろしい秘密があった。それは、屋敷の隠し部屋に幽閉した妻の存在だった――。
ブロンテの小説は何度も映画化されているが、フクナガ版で見逃せないのはその導入部だ。私たちは映画の冒頭で、ジェーンが無人の荒野を彷徨い、冷たい雨に打たれ、ぬかるみに足をとられて泥まみれになる姿を見つめながら、その世界に引き込まれる。
脚本を手掛けたモイラ・バフィーニは、独特の構成で原作の物語を脚色している。プロダクション・ノートにも書かれているように、ジェーンがロチェスターのもとを飛び出したあとに身を寄せるリバース家とのエピソードはこれまで省かれることが多かった。しかしバフィーニは、この部分を冒頭に持ってきて、小説では最初に出てくるジェーンの子供時代をフラッシュバックで描いた。
この構成は、フクナガの視点やスタイルを際立たせるのに貢献している。筆者はこの映画を観ながら、デビューしたばかりの頃のマイケル・ウィンターボトムのことを思い出していた。ウィンターボトムは、サッチャリズムから連続殺人、同性愛、神と救済、ロード・ムーヴィーなどが絡み合い、時代を独自の視点からとらえるような『バタフライ・キス』でデビューし、その次にいきなり文豪トマス・ハーディの世界に挑戦し、『日陰のふたり』を撮った。
そのふたつの作品は、かなりかけ離れているように見えるが、ウィンターボトムには、一貫したスタンスがある。筆者がインタビューしたとき、彼は共通するスタンスについて以下のように語っていた。
「私は一般的な意味での物語というものに観客を引き込むような作り方はしたくない。観客が自分の考えや感情を自由に選択する余地を残しておきたい。それがある種の距離感を感じさせることになるかもしれないが、決めつけを極力排除し観客に委ねたいんだ」
ウィンターボトムは文芸作品を映画化しても、物語に縛られることなく、状況と個人に肉迫し、独自の世界を切り拓く。筆者は、フクナガにも共通するスタンスを感じる。 |