カスペルとスマイリーが線路脇に座っていると、ゲイの物売りが通りかかる。スマイリーの13秒の儀式を見ていた物売りは、このような台詞を口にする。「こんな小さい子を慰み者にして、若いゲイは野蛮ね」。この場面が意味するものはなかなか深い。
ゲイの物売りには、固い絆で結ばれたギャングの男たちが、自分と同類のように見える。しかし実際には、彼らは対極に位置している。なぜなら、ホモソーシャルな関係は、ミソジニー(女性嫌悪)やホモフォビア(同性愛嫌悪)と表裏一体であるからだ。
あるいはここで、アン・リー監督の『ブロークバック・マウンテン』を思い出してみるのも無駄ではないだろう。カウボーイの世界は、ホモソーシャルな関係で成り立っている。山奥で放牧の仕事についた二人の男たちは、ホモソーシャルな関係を育み、あくまでその延長線上でごく自然に肉体関係を持つ。
彼らの意識にはホモフォビアがあるので、自分たちをゲイだとは考えない。山奥であればそれですまされる。しかし、山を降りて閉鎖的な社会に戻った二人は、自分たちが決して受け入れられないゲイであることを思い知らされることになる。
そして、設定はまったく異なるが、この『闇の列車、光の旅』にも、ホモソーシャルな関係をめぐる複雑なドラマがある。ストリート・ギャングの場合、その関係は根本的に歪んでいる。社会的な絆というからには、本来なら大人の間で結ばれるものである。ところがこのストリート・ギャングは、勢力を拡大するために背伸びしたい子供心につけ込み、裏切りを許さないホモソーシャルな関係でがんじがらめにしてしまう。
この映画では、そんな関係と家族の絆が対置されている。「許せ、母さん」というカスペルのタトゥーが物語るように、ホモソーシャルな関係は家族を引き裂く。ギャングになることで自動的に同居する祖母との絆を断ち切ったスマイリーは、裏切り者になることを恐れ、カスペルを追うことで深みにはまっていく。ギャングの標的となったカスペルは、自分を呪縛してきた連帯関係の虚しさを噛みしめながら、サイラを国境の向こうに送り届けようとする。
離れて暮らしてきた父親に乞われ、彼がアメリカに築いた家庭の一員になることに戸惑いを覚えていたサイラは、カスペルと行動をともにすることで変化する。カスペルもまた彼女にウィリーとして記憶されることで救われるだろう。家族を引き裂くホモソーシャルな関係の呪縛を乗り越え、家族の絆に目覚めていくドラマには深い感動がある。 |