かつてフランス文学界の話題をさらったミシェル・ウエルベックの小説『素粒子』では、“アメリカに起源を持つセックス享受型大衆文化”がテーマのひとつになっていた。主人公のブリュノはそれにどっぷり漬かり、変質者といわれても仕方がない行為の数々で自分を慰めていた。
イギリス映画界の新鋭スティーヴ・マックィーンの新作『SHAME‐シェイム‐』では、ニューヨークを舞台にそんなセックス依存症の世界が赤裸々に描き出される。
エリート社員を思わせる主人公ブランドンは、仕事以外の時間をすべてセックスに注ぎ込んでいる。自宅にデリヘル嬢を呼び、アダルトサイトを漁り、ウェブカメラによるセックスチャットにのめり込む。バーで出会った女と真夜中の空き地で交わり、地下鉄で向かいに座る女が思わせぶりな仕草を見せると、ホームまで追いかける。
だが、そんなブランドンのマンションに妹が転がり込んできたことで、状況が一変する。セックスを中心に回ってきた彼の世界はバランスを失い、その肉体と心は、欲望とこれまで封印してきた感情の狭間で引き裂かれていく。彼が、シンガーである妹の歌を聴いて、不覚にも涙する場面は、微妙な感情を見事に表現している。
『素粒子』のブリュノにはセックスにとらわれるような暗い過去があった。しかしこの映画では、ブランドン(と妹)の過去は明確にはされず、観客の想像に委ねられている。というよりも、彼の過去や依存症になった原因は必ずしも重要ではない。
マックイーンが関心を持っているのは、“檻”に囚われた人間だといえる。これまで自分の生活を完全にコントロールし、閉ざされた世界を生きてきたブランドンは、依存症を意識することがなかった。ところがそんな彼の世界に他者の眼差しが割り込んでくる。
会社に出社すると、ウイルスが原因でパソコンが回収されている。その原因は、彼がアダルトサイトを漁っていたことだと思われる。ウイルスが駆除されたパソコンが戻ってきたとき、彼は上司からハードディスクが汚れていると指摘される。そこはまさに変態の世界になっていた。 |