■■効率的に戦力を確保するために利用される子供たち■■
フランスの新鋭ジャン=ステファーヌ・ソヴェール監督の長編劇映画デビュー作『ジョニー・マッド・ドッグ』では、内戦で混乱するアフリカの国を舞台に、暴虐の限りを尽くす少年兵の姿が容赦なく描き出される。
20世紀の終盤から顕著になった子供の兵士の存在は、世界の動きと深い関わりを持ち、私たちにとっても決して他人事とはいえない。政治学者のP・W・シンガーはその著書『子ども兵の戦争』のなかで、子供が兵士になる三つの原因を挙げている。
まず、グローバリゼーションによって社会が崩壊、あるいは不安定化し、世代の断絶が広がり、子供の位置づけが混乱をきたしていること。次に、兵器が技術的に簡素化され、子供でも扱えるようになったこと。そして、政治や宗教ではなく私利私欲を動機とする極めて残虐で違法性のある新手の紛争が増加したことだ。その結果として、最小限の投資で効率的に戦力を確保するために、子供が利用される。そんな背景があることを踏まえておくべきだろう。
■■舞台をコンゴからリベリアに変え、元少年兵たちを起用■■
『ジョニー・マッド・ドッグ』の原作は、コンゴ出身の作家エマニュエル・ドンガラが2002年に発表した同名小説だ。ドンガラのコンゴでの体験をもとに書かれたこの小説では、残虐な少年兵に変貌を遂げたジョニーと家族を守ろうとする少女ラオコレの視点を交錯させながら、内戦の世界が描き出されていく。映画はそんな構成を引き継ぎつつ、独自の世界を切り開いていく。そこには、これまでドキュメンタリーの作家として活動してきたソヴェール監督ならではのアプローチがある。
彼は、90年代から二度に渡る内戦をくぐり抜け、今もその傷跡が生々しく残るリベリアを舞台に選び、主要な登場人物に15人の元少年兵を起用した。アメリカの黒人解放奴隷に植民地化されるという特異な歴史を持つリベリアは、少年兵が前線に立つ紛争で世界的な注目を集めた。
たとえば、コートジボワール出身の作家アマドゥ・クルマは、リベリアとシエラレオネの内戦を体験した元少年兵の告白という形で綴られる『アラーの神にもいわれはない』を発表した。先述したシンガーの著書には、以下のような記述がある。「国連の試算によれば、リベリア紛争では約二万人の子どもたちが戦闘員となり、さまざまな勢力の戦闘要因の最大七〇パーセントを占めていた」
ソヴェール監督は、そんなリベリアを舞台に元少年兵を起用することによって、より深く現実に根ざした世界を切り開こうとする。だから原作の構成を引き継いではいるものの、その話術はまったく異なる。原作では、頻繁に挿入される主人公の回想によって、様々な背景が見えてくる。これに対して映画では、背景を削ぎ落とし、主人公と彼らを取り巻く現実が、ドキュメンタリーのように生々しく描き出されていく。
■■ホモソーシャルな連帯関係と家族の絆を対置■■
15歳の少年兵ジョニーと13歳の少女ラオコレは、どちらも戦争の犠牲者だが、対極ともいえる生き方を強いられる。ソヴェール監督は、“ホモソーシャルな連帯関係”と“家族の絆”という二つの要素を対置することによって、その違いを浮き彫りにしていく。ホモソーシャルな連帯とは、同性間の社会的な連帯を意味する。 |