これが初監督作品となるハンガリーのガーボル・ロホニの『人生に乾杯!』には、経済的に追い詰められた老夫婦の逃避行が描かれる。彼らの逃避行が痛快なのは、しょぼくれた老人が輝きを取り戻し、思わぬ力を発揮するからだけではない。この逃避行を印象深いものにしているのは、現在と歴史との関わりだ。
81歳のエミルとその妻ベティは、老朽化した集合住宅で、変化も希望もない貧しい生活を送っている。拡大するグローバリゼーションのなかで市場経済へと移行したハンガリーで、年金だけで生活するのは難しく、ついに電気まで止められてしまう。
ふたりには、それぞれにこれまで守り続けてきたものがある。ダイヤのイヤリングと愛車だ。それらは、50年前の彼らの出会いに繋がる思い出の品だ。共産主義時代、要人の運転手だったエミルは、諜報機関に追い詰められた伯爵令嬢のヘディを助けた。そのときに彼女が差し出したのが、ダイヤのイヤリングだった。エミルは危機が去ったあとでそれをすぐに彼女に返し、ふたりの間に恋が芽生え、結婚することになった。
それから50年後、ヘディが借金取りに大切なイヤリングを差し出したとき、エミルはある決断をする。運転手を辞めるときに譲り受けた愛車、旧ソ連製の政府要人用リムジン“チャイカ”と車内に置いたままにされていたトカレフを使って、強盗を始めるのだ。そして、ぎっくり腰に悩まされていた夫の勇ましさに心を動かされたヘディも行動をともにするようになり、老夫婦は大衆の支持を集めるようになる。
エミルの愛車チャイカの活躍は痛快だ。さすが政府要人用といえばいいのか、砂利だらけの急斜面をパワーで乗り切り、警察の車両を易々と振り切ってしまう。そこで筆者が興味を覚えるのが、歴史との関係だ。
老夫婦は共産主義体制が続いていれば、少なくともそれなりに安定した生活を送ることができたはずだ。それなら、チャイカやトカレフが活躍するドラマは、ノスタルジーや共産主義時代の逆襲を示唆しているのか。
しかし、ドラマの展開とともに、エミルが同志の裏切りにあっていたことや、夫婦が忘れがたい悲劇を体験していたことが明らかになる。さらに、彼らの逃避行になんとなく気になる小道具が出てくる。大きなクマの縫いぐるみだ。ショッピングモールで他のものといっしょにそれを購入するのだが、どうもいまの彼らに必要なものには見えない。だが、その縫いぐるみが、予想を裏切るラストで大役を果たす。
チャイカとトカレフとクマという旧ソ連に結びつく三点セットの運命は、エミルとヘディが共産主義時代を完全に清算し、出会いのときからもう一度、新たな人生を歩み出すことを意味している。 |