そこで、変貌を遂げるモスフィルムの証を求めて、すでに撮影を終了しているイタリアとの合作『The Siege of Venice』のために作り上げられたオープン・セットに行ってみた。運河も含め、実物大に作られたベニスの街は、雪と雨にあらわれて色が褪せ、外れかけた扉が風に吹かれてガタガタと音をたてていた。運河に水はなく、しかも、あのモスクワのどんよりとした空の下で見るベニスの街は、
シュールでもあるし、どこか、虚しい感じもして落ち着かない。
この映画の内容は、もちろんソビエトとはまったく関係がない。それでも、エキストラなども含め、本物のベニスで撮影するよりも、わざわざモスフィルムのなかに新しいベニスを作ってしまった方が安く上がってしまうという。ところどころに雪も見えるこのベニスの街は、海外との経済的な状況の大きな違いだけが、海外の映画会社をモスフィルムに引きつけていることを物語っている。
■■ソビエト国内の映画事情■■
モスフィルムのプロダクション・マネージャー、ヴィタリィ・A・ボグスラフスキーは、ソビエトにおける現在の映画の状況をこんなふうに語った。「シルベスタ・スタローンの『ランボー』がモスクワの最もいい映画館で公開されているんだ。これは、5年前だったらまったく考えられないことだ。それに、ショーン・コネリーが、撮影のために赤の広場に立つなんて。
3年前、スタローンが西ドイツから東ドイツに入ろうとしたとき、彼はアンチ・ソビエトの"ランボー"だということで入国を拒否されたんだ。しかし、この2年で世界は大きく変わり、いま彼がモスクワに来れば大歓迎だよ」
そんな彼の言葉を裏付けるかのように、モスクワで最も大きな映画館では、『ダイ・ハード』が上映されているところだった。また、映画『タクシー・ブルース』に登場する、あの巨大なテレビ・モニタがあるモスクワのメイン・ストリートでは、『風とともに去りぬ』がかかっていた。一方、先述したイルマー・タスカは、こんなことも語っていた。
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』がモスクワ映画祭で上映されたとき、デ・ニーロがモスクワを訪れたのだが、そのときはまだ誰もデ・ニーロのことを知らなかったと。
『バック・イン・ザ・U.S.S.R.』のために働くモスフィルムのトランスポーテイション・マネージャー、アレクサンダー・ユルチコフは、現在のモスフィルムの変化と未来についてこんなふうに語った。「これまでは働ける場所が限られていたけど、いまはもっとお金が入ってくるようになった。でもロシア人はみんな西側の映画を観に行ってしまう。ソビエトでは人材はあっても、
機材や技術が遅れているためにいい映画を作ることができないんだ。今回の撮影でも、ドイツやフィンランドから機材を入れている。ここでは、機材はすべてモスフィルムが所有していて、みんな自分が使う機材に責任を持っていない。メイク用品などももちろんあるけど、使いものにならなくて、ジョイント・ベンチャーを組んだ会社が入れているんだ。近々モスフィルムがイタリア製の機材を購入するという話もあるけど、
個人がそれを所有しないというのが問題だよ。中央集権ではなく小さなユニットにわけて、直接的に責任を負えるようにすれば…。難しいだろうけど、可能性はあると思うよ」
これは、モスフィルムのジェネラル・ディレクターのドスタルも語っていたことだが、とにかく機材や技術の問題が一番で、お金が必要なのだ。モスクワでは、ちょうど『タクシー・ブルース』が公開されているところだったが、筆者が話をしたモスフィルムのスタッフは、誰もこの映画を観ていなかった。この映画の企画は国内で受け入れられず、フランスのプロダクションが出資したことによって映画化にこぎつけ、
カンヌで監督賞を受賞した。こういう映画を作って、それがお金に結びつけば理想的であるように思うのだが、誰も観ていないというのは残念である。
■■『バック・イン・ザ・U.S.S.R.』の背景■■
『バック・イン・ザ・U.S.S.R.』の撮影は、12月14日に、モスフィルムのなかに建てられたセットを背景にしたキャスト、スタッフ一同の記念撮影で幕を下ろした。
この映画の企画は、先述のモスフィルムのボグスラフスキーによれば、電光石火のごとく話が決まった。カンヌにおける出会いで話が持ち上がり、その6月に契約、7月にはスタッフ・キャストが決定。10月1日から撮影に入り、その撮影は予定より2日早く進み、予算も安く上がりそうだという。
イルマー・タスカによれば、当初、監督には、ロマン・ポランスキーやピーター・ボグダノヴィッチの名前も上がっていたという。しかも、どちらの監督も可能性がないわけではなかったが、スケジュールの都合上、撮影の時期がもっと先になってしまう。そこで、いますぐにでも撮影に入ることができる監督ということで、若手のデラン・サラフィアンに決まった。イルマー・タスカは、
ブラック・マーケットが暗躍する"いま"作らなければいけない映画だからとその理由を語っていた。しかし、ハリウッド側には、もっと別の意味で、いま撮らなければ撮れなくなる映画という観測があったのではないかという気もする。
主演のフランク・ホェーリーは、ソビエトの現在について、こんなふうに語っていた。「ぼくの目から見ると、この国は悪い方向に向かっている。来年の今頃だったらぼくがこの映画を作るためにここにいることは不可能なような気もする。この4〜5ヶ月の間に大きな変化がある。ゴルバチョフが、軍をコントロールすることができなくなって、軍が街に出て殺戮を犯すかもしれない。食料事情がもっと悪化して、暴動が起こるかもしれない」
一方、どうしてもいま作りたいという意向から、監督に起用されることになったデラン・サラフィアンは、モスクワでの撮影を非常にクールに見ているようだ。彼に、モスフィルムのスタッフとのコミュニケーションについて尋ねると、こんな答が返ってきた。「(映画の狙いを)彼らに理解してもらおうとするようなことは何もしていない。この映画を理解している人間はほとんどいないんじゃないかと思う。
彼らが目指しているものとはだいぶ違うはずだ。実際に出来上がったものを観て、やっと理解できるんじゃないかな。この映画のことを完璧に理解しているのは、ぼくとフランク・ホェーリー、そして、製作総指揮のルイス・ストローラーだけだ。ぼくはこの映画の脚本家すら、理解しているとは思えない」
『バック・イン・ザ・U.S.S.R.』を含むこうしたジョイント・ベンチャーを経て、モスフィルムはどこへ向かおうとしているのか。それは、映画「ゼロシティ」のラスト・シーンで、主人公を乗せたボートがどこに向かうのかわからないのと同じようにはっきりとしない。そして、"いま"のモスクワを描いた『バック・イン・ザ・U.S.S.R.』が公開されるとき、実際のモスクワは果たしてどうなっているのだろうか。 |