カレン・シャフナザーロフ監督の『ゼロシティ』では、モスクワから田舎町に派遣された技師が、自分の目を疑いたくなるほど奇妙な体験に次々と遭遇したあげくに、町から出られなくなっていることに気づく。道に迷った主人公は、不思議な博物館にたどりつく。そこには、ロシアとこの田舎町をめぐる虚実入り乱れた歴史が再現されている。その博物館を後にした彼は、水辺にあったボートにひとり乗り込み、
どこに向かうのかもわからないままボートを漕ぎ出す。それと同時に、博物館のなかでは、再現された歴史を照らす照明がひとつひとつ消えていく。
ペレストロイカという急激な社会の変化のなかで、これまでの歴史は意味を失い、もはや後戻りはできない。これから先は何も見えないが、とにかく前に進んでいくしかない。この映画はそんな時代の空気を表現している。
『ゼロシティ』の翌年の91年に製作されたソビエト映画『君はどこにいるの?』でも、主人公が先の見えない世界に向かって旅立たなければならなくなる。何の変哲もない田舎町を舞台にしたこの映画のあまりにもシンプルな物語は、おそらく世界中のどこに舞台を変えても成立するだろう。しかしそのシンプルな物語から、これほど不条理な面白さや意味が広がることも決してないに違いない。
この田舎町では、毎日何の変化もなく時間が過ぎ去っていく。しいて変化するものがあるとすれば、それは天気ぐらいのものだ。しかし、町で知った顔に出くわすと天気の話題を持ちだす主人公の若者は、周囲から半ば疎ましい目で見られている。なまじ天気の話題など持ち出されれば、変化のない日常がいっそう虚しく感じられるだけなのだ。
そこで気づまりになった主人公は、思い余って「友人の招きで極東に行き仕事につく」と、ありもしないことを口走ってしまう。すると突然、大事件が起こったかのように町の人々の態度が急変し、町を出る英雄を祝福し、送り出す準備がすすめられていく。彼はどうしても町を出ていかざるをえないはめに陥るのだ。
この映画は、実にほのぼのとした雰囲気でドラマが展開していく。それだけに怖い気がするのは、町の人々が、主人公が具体的にどこに行き、どんな仕事につくのかほとんど関心を持っていないように見えることだ。彼が出発するというただそれだけのことが、完全に求心力を失った町に磁場を生み、空気を一変させてしまうのだ。
主人公にはもはやなす術がない。彼の目の前で、彼の部屋から必要がなくなった家具が持ち出され、しかも新しい間借り人までもが決まってしまう。これはまさに『ゼロシティ』の主人公が陥るのと同じ状況である。もう後戻りはできず、何が何でも進むしかないのだ。
そしてこの映画でいちばん印象に残るのは、乗客がひとりだけのバスが、人々に見送られる場面だろう。このバスには、具体的にどこかに向かうという現実感がまったくない。本当に浮遊するような不思議なイメージを漂わせている。しかしその浮遊するイメージにこそ、ある種のリアリティがある。
なぜなら、町の住人は主人公が出発するという事実だけにささやかな希望を見出し、
自分たちの居場所を相対化する。一方、追いつめられた主人公が希望を託すのも、極東やモスクワといった具体的な場所ではなく、空に浮かぶ雲や天国なのである。つまりこのバスは、住人と主人公が抱くあまりにも抽象的な希望のはざまを、あてもなく走り出してしまうのだ。
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