もちろんこれだけなら限られたディテールに過ぎない。しかし、こうした引用を手がかりに振り返ってみると、彼の映画はすべて、『オズの魔法使』のある種の変奏、あるいは現代的な解釈であるように思えてくる。魔法の国で過ごす時間は楽しいが、いつか我が家に戻らなければならない時が来る。ヴァン・サントが関心を持っているのは、その魔法の国ではなく、帰り道の方だ。何らかの事情で現実と隔たりのある人生を送ってきた人間が、どのように現実を受け入れていくのか、あるいは、受け入れられないのか。彼はそれを描きつづけているのだ。
『ドラッグストア・カウボーイ』のボブは、仲間の死と帽子のジンクスをきっかけに、堅気の道を歩み始める。『マイ・プライベート・アイダホ』のマイクは、男娼の生活のなかで母親の面影が何度も脳裏をよぎり、記憶に刻まれた我が家に通じる道を探し求める。神から与えられたヒッチハイクという人生に疲れた『カウガール・ブルース』のヒロインは、自分が帰ることのできる場所ともいえる女性に出会い、変貌を遂げていく。
『誘う女』のヒロインはテレビの世界の虜となり、現実を憎み排除しようとする。この映画で、氷の下に眠る彼女の姿は、最後までテレビに囚われた人生を象徴している。幼い頃に心と身体に深い傷を負った『グッド・ウィル・ハンティング』の主人公ウィルは、天性の才能と知識で武装し、仲間以外の現実を排除する。しかし、同じ傷を持った大学講師ショーンとの心の触れ合いを通して殻を破り、現実に踏み出していく。
『小説家を見つけたら』に登場するジャマール少年もまた、その優れた才能ゆえに、魔法の国と現実のはざまで苦悩することになる。魔法の国とは大作家フォレスターと彼の部屋で過ごす時間である。現実とはジャマールが通い出した私立校の世界だ。私立校で彼が能力を発揮しようとすると、彼の前には障壁が立ちはだかる。そして、バスケットでは障壁を乗り越えるが、文学ではそうはいかない。感情を抑えられなくなった彼は、禁じられた魔法を使うことで、逆にクローフォード教授に追いつめられてしまう。
しかしクレアの父親が、州大会決勝に勝てばすべてを水に流すという話を持ちかけ、フリースローのチャンスがまわってくる。それがこのドラマのひとつのポイントになる。
前作『グッド・ウィル・ハンティング』では、ウィルの将来をめぐってショーンとランボー教授のあいだに対立があった。ランボーは、無限の才能があるならそれをとことん生かし、成功を極めるのが当然のことだと考えるのに対して、ショーンは、どんなに才能があっても自分の道は自分で決めるしかないと考える。この「小説家を見つけたら」でも、共通する主題が異なる視点で描かれている。
ジャマールのように決して豊かとはいえない黒人家庭に育った若者なら、将来は、バスケットや野球といったスポーツの世界かヒップホップのような音楽の世界に進もうとする。ということは、才能はあらかじめその領域が社会状況によって規定されていることになる。これに対して文学は、もしジャマールにもともと尊敬する黒人作家がいて、自分も同じ道に進もうという目標があれば別だが、彼はただそれが好きで、自然に育まれた才能なのだ。
この映画では、彼がフリースローを失敗したのか、故意にはずしたのか必ずしも明確にされないが、筆者は故意にはずしたのだと思う。もしそれを決めてしまえば、他にも道があるのに、外部によって規定された才能によって社会に受け入れられることになるからだ。彼はフリースローの前に、クレアや教授の顔を見るが、彼らにそんなふうにして受け入れられたくはないのだ。そして、フリースローをはずしたことによって、勝負を決めるボールは、フォレスターに手渡されることになる。
ヴァン・サントの作品では、『オズの魔法使』の変奏を通して、家族とは何かが問われる。血の繋がった家族に対して、魔法の国でも家族的な絆が培われるからだ。この映画でも、ジャマールから渡されたボールをしっかり受けとめる時、フォレスターは文学の師ではなく父親となる。そして映画のラストで、ジャマールが母親や兄とともにフォレスターの部屋に入っていくとき、彼にとってそこはもはや魔法の国ではなく、揺るぎない現実となっているのである。 |