『小説家を見つけたら』で詳しく書いたように、ガス・ヴァン・サントはしばしば自分の作品のなかで、『オズの魔法使』を引用し、その物語を変奏することによって、独自の世界を切り開いてきた。アメリカで同性愛者であることを公表して初めて公職に就いたハーヴィー・ミルクの人生を描くこの『ミルク』も例外ではない。というよりも、『オズの魔法使』の変奏がこれまで以上に生かされいる。
筆者がまず注目したいのは、映画の導入部だ。1970年のニューヨーク、スーツを着たビジネスマンのミルクが、地下鉄の階段で20歳も年下のスコット・スミスに声をかける。スミスは、40歳以上はお断りだと答える。するとミルクは、自分はラッキーだと言う。その日の夜の12時を回るまでは39歳だからだ。そしてふたりは恋に落ちる。自分の殻に閉じこもっていたミルクは、“新しい世界”を探せというスミスの言葉に動かされて、ニューヨークを旅立つ。その新しい世界とは、後にゲイのメッカとなるサンフランシスコのカストロ・ストリートであることがやがて明らかになる。
この映画は実話に基づいているが、この導入部は必ずしも事実ではない。ミルクがスミスと地下鉄の駅で知り合うのは、実際には彼が41歳の誕生日を迎えて間もなくのことだ。しかも、その当時ミルクは殻に閉じこもっていたわけでもない。彼は60年代末から、オフブロードウェイの舞台に関わり、カウンターカルチャーを牽引する人々と付き合うようになっていたし、短期間ではあるがすでにサンフランシスコにも住んでいた。
社会から疎外され、自分の殻にこもって生きてきたミルクが、カストロ・ストリートという新しい世界に踏み出す。それは、ヴァン・サント的な世界と入口となる。ミルクは、ゲイのコミュニティという魔法の国の住人となり、親しみを込めて“カストロ・ストリートの市長”と呼ばれるようになる。
もちろん、それだけであれば、新しい世界との境界をいくらか強調する効果しか生み出さない。しかし、ヴァン・サントが関心を持っているのは、その先の展開だ。魔法の国で過ごす時間は楽しいが、いつか我が家に戻らなければならないときがくる。ヴァン・サントにとって重要なのは、その帰り道だ。
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