そうした生活に対する違和感を、視覚的な要素を通して表現するリンチの言葉は、第12章で引用したエリック・フィッシュルのコメントを想起させることと思う。フィッシュルは、アメリカン・ドリームとしての郊外生活は、視覚の産物、まやかしであり、何もかもがあまりにも"完璧"な郊外の世界に、耐え難い違和感を覚えたというようなことを語っていたが、リンチもまたそれに近いことを感じていたわけだ。
そして、フィッシュルは、様々な模索を経たあとで、少年時代の郊外体験に根ざしたところから『Bad Boy』以降の独自の世界を切り開いてきたわけだが、リンチの場合も、個人的な体験と作品のあいだに、同じような繋がりを見ることができる。先ほど引用したリンチのコメントから真っ先に思い浮かぶ作品といえば、何といっても『ブルー・ベルベット』(86)だろう。
ぬけるような青い空、そして、白いフェンスと赤いバラ。ボビー・ヴィントンの<ブルー・ベルベット>が流れ出し、のどかな郊外の家並みがつづく道を消防車が呑気に走りすぎ、今度は、白いフェンスに黄色のチューリップが大きく映し出される。それから、横断歩道を渡る子供たちの、これまたのどかな光景、そして、白いフェンスと豊かな緑に囲まれた一軒の家。その庭では、家の主人が芝生に水をやり、居間では夫人が、テレビのサスペンスドラマを見ている。これはまさに、50年代の雑誌広告の世界を思わせる光景である。リンチ流にいえば、世界はこうあるべきだといいたげな光景といってもよいだろう。
ところが、家の主人が、植木にからんでいるために水の調節がきかなくなったホースをなんとかしようとしたときに、突然発作が起こり、彼は芝生の上に倒れこむ。犬がホースから噴き出す水と戯れ、その向こうでは、赤ん坊がよちよち歩きをしている。
すでに触れたように、郊外の世界には、快適な生活を送るための環境が整えられている一方で、ひとつ歯車が狂うと全体のバランスが崩れかねない危うさがある。この場面では、そんな危うい雰囲気がとらえられている。しかも、カメラは、表面的なイメージの影の部分をえぐりだそうとするかのように、緑の芝生のなかにもぐり込み、不気味にうごめく蟻の群れをとらえる。これは、『ブルー・ベルベット』という映画が描き出そうとする世界を暗示するようなオープニングだ。
この映画の主人公ジェフリーは、野原で人間の耳を見つけ、警察に届けたことがきっかけで、犯罪と暴力、倒錯的なセックスの世界に引き込まれていく。この官能と倒錯の世界が実に鮮烈な印象を残すのは、映像そのもののインパクトだけではなく、それとは対極にある世界との際立ったコントラストによるところが大きい。この映画には、ふたつの世界を対置させたり、ひとつのもののふたつの側面をみるようなイメージがふんだんに盛り込まれている。
たとえば、主人公が見つける耳は、こちらと向こう側の境界を暗示している。主人公は、いかにも郊外の中流家庭の娘といった感じのサンディと、ナイトクラブの歌手で倒錯的なセックスを強要されるドロシーのあいだを揺れ動く。"耳"の事件を担当する刑事はサンディの父親だが、彼の同僚の刑事が犯人たちとグルであったという展開も、この対置の構図に加えることができるだろう。
もちろん、先ほど触れた冒頭の典型的な郊外の光景と芝生の下に蠢く蟻の群れの対照もそのひとつである。また、この映画の冒頭では、ブルーのベルベットが妖しい艶を放ち、それが抜けるような青い空へと変わるのだが、このふたつの青の対照なども実に効果的であると思う。
そして、こうした対置の構図のなかで展開するこの映画が、奇妙な余韻を残すのは、対置されるものが、単なる表と裏、光と影、あるいは正常と異常といった関係に帰結してしまうことがないからだろう。フィッシュルがあまりにも完璧な世界に耐えられないものを感じ、リンチがあまりにも普通である両親に戸惑い、世界はこうあるべきだといいたげな広告の笑顔に違和感を覚えたように、表や光、正常といった側面は、それがあまりにも過剰であれば、そこにすでに病理が潜んでいるのだ。この映画の冒頭の青い空と白いフェンス、赤いバラは、ある意味ではあまりにも完璧であり、それゆえに、非現実的で不気味な印象を与えるのだ。
リンチもまた、フィッシュルと同じように、少年時代の体験がひとつの大きなきっかけとなって、この『ブルー・ベルベット』の世界を作り上げたことは間違いないが、このふたりの作品を照らし合わせてみたとき、特にフィッシュルの『Bad
Boy』と『ブルー・ベルベット』から、同じようなイメージが浮かび上がってくるのが、筆者にはとても興味深く思える。
『ブルー・ベルベット』には、主人公ジェフリーが、ドロシーの部屋のクロゼットに身をひそめ、倒錯的なセックスを覗き見する場面があるが、そこに漂うムードは、『Bad
Boy』そのものといっていいだろう。どちらも倒錯的で密室めいた濃厚な空気があり、少年や若者の好奇心や後ろめたさが入り混じった窃視行為が描かれるか、あるいは暗示されているのだ。
こうしたイメージは、この本でこれまで取り上げてきた様々な作品には、あまり見られなかったものである。そして、『Bad Boy』と『ブルー・ベルベット』は、どちらも80年代の作品だが、この二作品を、この何章かで書いてきた時代の流れのなかに置いてみると、なかなか面白いのではないかと思う。
70年代から80年代にかけて、アメリカ社会は保守化し、ジュディス・ゲストの言葉にあったように、異常ではなく普通が見直されるようになった。映画『普通の人々』や『ポリエステル』では、普通であることに揺さぶりがかけられ、その意味が問い直される。そして、この前の章では、キングの『クリスティーン』を通して、50年代が不気味な雰囲気を漂わせて甦ってきたばかりだった。
『ブルー・ベルベット』や『Bad Boy』は、そうした流れの先にあるイメージではないかと思う。あるいは、一見すると普通に見える世界を、家族の絆や家庭というかたちから問い直すのではなく、個人の内面の奥底に触手を伸ばすことによって、表面的な世界の向こう側に蠢くものを描き出し、現実を異化してみせるといってもいいだろう。
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