[ストーリー] 名門音楽大学に入学したドラマーのニーマンは、伝説の鬼教師フレッチャーのバンドにスカウトされる。彼に認められれば、偉大な音楽家になるという夢と野心は叶ったも同然と喜ぶニーマン。だが、ニーマンを待っていたのは、天才を生み出すことにとりつかれ、0.1秒のテンポのズレも許さない、異常なまでの完璧さを求めるフレッチャーの狂気のレッスンだった。さらにフレッチャーは精神を鍛えるために様々な心理的ワナを仕掛けて、ニーマンを追いつめる。
恋人、家族、人生さえも投げ打ち、フレッチャーの目指す極みへと這い上がろうとするニューマン。果たしてフレッチャーはニーマンを栄光へと導くのか、それとも叩きつぶすのか――?[プレスより]
『ガイ・アンド・マデリン・オン・ア・パーク・ベンチ(原題)』(09)でデビューを果たした新鋭デイミアン・チャゼル監督の第2作『セッション』(14)は、ジャズを題材にした物語のように見えるが、ジャズという音楽を探究しているわけではない。本質的にはジャズとは関係のない映画と考えておいたほうがいいだろう。
それが端的に表れるのが、鬼教師フレッチャーが口にするチャーリー・パーカーのエピソードだ。クリント・イーストウッド監督の『バード』(88)にも描かれているように、駆け出しのパーカーはカッティングコンテストのステージで、ドラマーからシンバルを投げつけられるという屈辱を味わった。
フレッチャーの解釈では、バードはそんな屈辱をばねに才能を磨き、最高の演奏で人々を見返してみせたということになる。だからこの教師はレベルの低い演奏には椅子まで投げつける。しかし、いくら正確に叩けても、いくら速く叩けても、そこからオリジナリティが生まれるわけではない。
イーストウッドは『バード』のなかで、シンバルの屈辱の場面を繰り返し挿入し、パーカーを“ヒップスター”として描き出していく。ノーマン・メイラーはヒップスターを以下のように表現している。それは、「死の条件を受け入れ、身近な危険としての死とともに生き、自分を社会から切り放し、根なしかずらとして存在し、自己の反逆的な至上命令への、地図もない前人未踏の旅に立つこと」を自分に課す人間である。シンバルの屈辱によって黒人の同胞からも社会からも切り離された(というよりも自ら切り離した)パーカーは、そんな前人未踏の旅のなかでビ・バップの先駆者になる。 |