セッション
Whiplash


2014年/アメリカ/カラー/107分/スコープサイズ/5.1chデジタル
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(初出:)

 

 

ジャズという素材を最大限に利用し
切り拓かれるイニシエーションの世界

 

[ストーリー] 名門音楽大学に入学したドラマーのニーマンは、伝説の鬼教師フレッチャーのバンドにスカウトされる。彼に認められれば、偉大な音楽家になるという夢と野心は叶ったも同然と喜ぶニーマン。だが、ニーマンを待っていたのは、天才を生み出すことにとりつかれ、0.1秒のテンポのズレも許さない、異常なまでの完璧さを求めるフレッチャーの狂気のレッスンだった。さらにフレッチャーは精神を鍛えるために様々な心理的ワナを仕掛けて、ニーマンを追いつめる。

 恋人、家族、人生さえも投げ打ち、フレッチャーの目指す極みへと這い上がろうとするニューマン。果たしてフレッチャーはニーマンを栄光へと導くのか、それとも叩きつぶすのか――?[プレスより]

 『ガイ・アンド・マデリン・オン・ア・パーク・ベンチ(原題)』(09)でデビューを果たした新鋭デイミアン・チャゼル監督の第2作『セッション』(14)は、ジャズを題材にした物語のように見えるが、ジャズという音楽を探究しているわけではない。本質的にはジャズとは関係のない映画と考えておいたほうがいいだろう。

 それが端的に表れるのが、鬼教師フレッチャーが口にするチャーリー・パーカーのエピソードだ。クリント・イーストウッド監督の『バード』(88)にも描かれているように、駆け出しのパーカーはカッティングコンテストのステージで、ドラマーからシンバルを投げつけられるという屈辱を味わった。

 フレッチャーの解釈では、バードはそんな屈辱をばねに才能を磨き、最高の演奏で人々を見返してみせたということになる。だからこの教師はレベルの低い演奏には椅子まで投げつける。しかし、いくら正確に叩けても、いくら速く叩けても、そこからオリジナリティが生まれるわけではない。

 イーストウッドは『バード』のなかで、シンバルの屈辱の場面を繰り返し挿入し、パーカーを“ヒップスター”として描き出していく。ノーマン・メイラーはヒップスターを以下のように表現している。それは、「死の条件を受け入れ、身近な危険としての死とともに生き、自分を社会から切り放し、根なしかずらとして存在し、自己の反逆的な至上命令への、地図もない前人未踏の旅に立つこと」を自分に課す人間である。シンバルの屈辱によって黒人の同胞からも社会からも切り離された(というよりも自ら切り離した)パーカーは、そんな前人未踏の旅のなかでビ・バップの先駆者になる。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   デイミアン・チャゼル
Damien Chazelle
製作総指揮 ジェイソン・ライトマン
Jason Reitman
撮影 シャロン・メール
Sharone Meir
編集 トム・クロス
Tom Cross
音楽 ジャスティン・ハーウィッツ
Justin Hurwitz
 
◆キャスト◆
 
アンドリュー・ニーマン   マイルズ・テラー
Miles Teller
テレンス・フレッチャー J・K・シモンズ
J.K. Simmons
ニコル メリッサ・ブノワ
Melissa Benoist
ジム・ニーマン ポール・ライザー
Paul Reiser
ライアン・コノリー オースティン・ストウェル
Austin Stowell
カール・タナー ネイト・ラング
Nate Lang
-
(配給:ギャガ)
 

 『セッション』で描かれるジャズにはそういう深みはない。フレッチャーはマンガ的なキャラクターといえる。しかし、だからといってこの映画がつまらないわけでも、レベルが低いわけでもない。なぜなら、これは本質的にジャズとは無関係の映画だからだ。デイミアン・チャゼルは、ジャズという素材を最大限に利用しながら、ニーマンという若者のイニシエーション(通過儀礼)を実にスリリングに、鮮やかに描き出している。

 ニーマンの母親は彼が幼い頃に家を出て行った。父親は物書きだが、生活のために高校の教師をしている。この父親は厳しい現実に打ちのめされて、明らかに自分を卑下している。だから野心を持つ息子とは話しがかみ合わない。そんな親子の溝が露になるのが、彼らが親戚の一家と食卓を囲む場面だ。

 ここで筆者が注目したいのは、親子とスポーツ及び音楽の関係だ。親戚の親子はスポーツでつながっている。父親はフットボールで活躍する息子たちを誇らしく思っている。ニーマンの父親もそれに同調する。これに対して、音楽で大きなチャンスをつかんだニーマンには、誰もが冷ややかな反応しか示さない。

 ドナ・ゲインズが、郊外で起こったティーンの集団自殺を取材して書いた『Teenage Wasteland』には、郊外生活においてスポーツは親子をつなぐ最良の絆になっているのに対して、郊外で出口を失うティーンが熱中するロックはほとんど世代で分断されているという指摘があった。(※事件と本書については、『サバービアの憂鬱』の「第24章 現代の郊外では何が起こっているのか」に詳しく書いています)

 この食卓を囲む場面のジャズにも同じことがいえる。物書きとして身を立てるという野心を持っていたかつての父親であれば、ニーマンを誇らしく思ったことだろう。しかし、いまの父親は明らかに郊外の平凡な価値観になびいている。だから、ニーマンは彼にとってイニシエーションとなるような試練を必要としている。そんな彼の前に立ちはだかるのが、フレッチャーという鬼教師なのだ。

 ニーマンとフレッチャーがリズムの主導権をめぐって激しくせめぎ合うクライマックスには、ジャズの美学が感じられるわけではない。だが、『スター・ウォーズ』のルークとダース・ベイダーの関係を想起させるようなイニシエーションの世界には興奮を覚える。

《参照/引用文献》
Teenage Wasteland: Suburbia’s Dead End Kids by Donna Gaines ●
(Pantheon, 1990, 1991)

(upload:2015/04/27)
 
 
《関連リンク》
クリント・イーストウッド 『バード』 レビュー ■
父と子の神話としての『スター・ウォーズ』
――三部作(エピソードIV〜VI)をめぐって
■
VA 『セッション:オリジナル・サウンドトラック』 レビュー ■
アレハンドロ・G・イニャリトゥ
『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』 レビュー
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アントニオ・サンチェス
『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡):OST』 レビュー
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