「連合軍にとって、シチリアが戦略的に重要なことは明々白々だったが、それはイタリアとドイツにとっても同じだった。チャーチルは上陸候補地について、「よほどのバカでない限り、誰にだってシチリアだと分かりそうなものだ」と直言している。それに、何が起こるか予想できないほど敵がバカだとしても、イギリスとアメリカおよびイギリス連邦諸国の軍隊一六万と、三二〇〇隻の艦船から成る大艦隊が上陸作戦に向けて集結し出せば、いくな何でも気づかれないはずがない。全長八〇〇キロに及ぶシチリア島の海岸線は、すでに七〜八個師団が防備を固めている。もしヒトラーが、連合軍の次の一手を正確に予測できるなら、フランスで待機している数万のドイツ兵を増援のため派遣するだろう。そうなれば、柔らかな下腹部は硬い筋肉の塊となり、上陸作戦の場は血の海と化すだろう」
どう考えても目標はシチリアだが、それをギリシャだと思わせるために捻りだされたのが、実在しない男を実在させ、偽の文書を持たせた男の遺体を海に流し、情報をベルリンまで届けるという奇想天外な欺瞞作戦。
そのギャップだけでも十分に面白いと思えるが、本作の作り手は、それをさらに際立たせるような脚色を施している。脚本を手がけたミシェル・アシュフォードは、原作のなかのある部分に特に注目している。それは、作戦を指揮するユーエン・モンタギューと、海軍省で働いていて作戦に参加することになるジーン・レスリーの関係だ。モンタギューは、手に入れた遺体にウィリアム(ビル)・マーティンという名前をつけ、彼にはパムという婚約者がいるという設定にした。そのパムの写真を提供したのがジーンで、彼女はパムの人物像を作り上げるのに貢献していく。そこで、この脚本家の想像力を刺激したと思われる記述を原作から抜き出してみたい。
「この、あちこち走りまわっていた美少女が、ユーエン・モンタギューの目に留まった。ジーンも、愛想がよくて見るからにハンサムな年上の将校が自分を特別な目で見ているらしいことに、きちんと気づいていた。「実を言うと、私をちょっと目で追っていました。ずいぶん夢中になっていたみたいです」。事実そのとおりだった。モンタギューの書いた文書は、公文書であれ私文書であれ、彼女のことを「チャーミング」「非常に魅力的」など、さまざまな賛美の言葉で形容していた」
「しかもモンタギューは、ビル・マーティンとの一体化をさらに推し進めていた。
「ユーエンはその役になりきっていました」と、ジーン・レスリーは語っている。「彼はウィリアム・マーティンで、私はパム。あの人の頭の中では、そういうふうになっていたみたいです」。モンタギューは(ビルとして)、(パム)であるジーンを熱心に口説き始めた。クラブに映画に食事にと、次々と連れて行く。プレゼントもアクセサリーも贈ったし、「ビル」の形見としてイギリス海兵隊のワイシャツのセパレート・カラーも渡した」
「ユーエン・モンタギューとジーン・レスリーの関係は、もしかすると単なる恋人ごっこで、恋愛を模した他愛ないおふざけの域を出るものではなかったかもしれない。後に愛のメッセージが書かれた写真をアイリスに見られたとき、モンタギューは、これは単なるジョークで、戦争での作戦の一部にすぎず、自分(と自分の分身)とジーン(とジーンの分身)の間には何もなかったと言った。妻は夫の言い分を信じたかもしれない。実際、モンタギューの言うとおりだったのかもしれない」
脚本家アシュフォードは、このような記述によほど刺激されたのか、そこに脚色をほどこし、モンタギューとジーンの関係に、モンタギューとコンビを組むチャールズ・チャムリーまで絡ませる。本作では、チャムリーがジーンに密かに心を惹かれていて、彼女が作戦に関与するきっかけを作るが、その期待とは裏腹に彼女はモンタギューと、引用したような関係になっていく。
つまり、作戦の重要性と中身のギャップだけでなく、その中身から生まれる恋愛関係を強調することで、ギャップがさらに大きくなる。ちなみに、ミンスミート作戦は、50年代に一度、『実在しなかった男(原題)/The Man Who Never Was』(56)として映画化されているが、そちらは、タイトルにある「実在しなかった男」を影の主人公にすることで、一貫性を感じさせる物語になっている。
話は本作に戻るが、筆者が特にこのモンタギューとジーンの関係に注目したのは、それが、設定はまったく違うにもかかわらず、ジョン・マッデンのヒット作『恋に落ちたシェイクスピア』 (98)を思い出させるからでもある。シェイクスピアとヴァイオラの真実の恋が、舞台の上だけでしか成就されないものであるように、モンタギューとジーンの恋も作戦のなかにだけ存在するウィリアム・マーティンとパムの間でしか成就されない運命にある。そういう意味で本作は、異色の戦争映画であると同時に異色の恋愛映画にもなっている。 |