『恋におちたシェイクスピア』の物語は、喜劇から悲劇へと変貌する「ロミオとジュリエット」の物語の背後にシェイクスピア自身の運命的なロマンスがあったとしたらという脚本家マーク・ノーマンのアイデアから発展し、劇作家のトム・ストッパードが脚本に加わって仕上げられたという。確かにこの映画には、そのストッパードがかつて自ら書いた戯曲を、監督もこなして映画化した『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』に通じるものがある。
『ローゼンクランツ〜』は、「ハムレット」に登場するふたりの脇役を主人公にし、彼らの視点から物語を再構築した作品だ。この映画の世界では、その主人公たちが何度コインを弾いても、必ず表が出て、決して裏が出ることがない。それは彼らが物語通りに死ぬ運命にあることを意味している。しかし、彼らがそんな運命を回避する機会が皆無だったわけではない。
ローゼンクランツは恐るべき直感の持ち主で、蒸気機関や万有引力の法則など世界を変える発明、発見の糸口をつかむが、それを理論的に説明することができない。一方のギルデンスターンは、非常に現実的な人間ではあるが、朋友の直感を受け入れる柔軟さを持ち合わせていない。彼らは一見協力しているように見えながら、肝心なところでかみ合わず、運命の不条理な力を気づかぬうちに擁護していくことになるのだ。
この映画では、明確な結末に至る過程に散りばめられた多くの選択肢のなかから、気づかぬうちに運命を選び取る主人公たちの姿を通してそこに人間が見えてくることになる。『恋におちたシェイクスピア』には、こうした話術をさらにひねった面白さがある。
シェイクスピアとヒロインが、「ロミオとジュリエット」を思わせる運命に引き込まれていくことは明確だが、単純に重なっていくわけではない。当時の風潮と現代的な価値観が交差する世界に散りばめられた選択肢のなかから、彼らが運命を選び取っていくことは、現実と虚構や男女の立場の転倒を招きよせ、ユニークな視点から人間が浮き彫りにされることになるのだ。
16世紀末のロンドンでもショービジネスの裏側は厳しく、深刻な経営難に直面するローズ座にとって唯一の希望は、新進の劇作家シェイクスピアが書いている新作喜劇だった。ところが彼は大スランプにみまわれ、占い師のところに通ってフロイト流のセラピーを受けている始末。
そんなとき彼は、裕福な商人の娘ヴァイオラを見初めると同時に、有望な役者トマス・ケントを発掘し、創作意欲をかきたてられる。だが、まさかふたりが同一人物であろうとは想像だにしない。当時は女性が舞台に上がることが許されなかったため、芝居に憧れる彼女は男装してオーディションを受け、ロミオの役を得たのだ。しかし彼女にはエリザベス女王も認めた婚約者がいて、間もなくアメリカに旅立つことになっていた。 |