ローゼンクランツとギルデンスターンは、「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」というこの映画のタイトルの通りに、そして、「ハムレット」の物語の通りに最後に死ぬことになる。彼らが死ぬ≠ニいう運命は、この映画の冒頭からすでに約束されている。
ローゼンクランツは、拾ったコインを指ではじいて賭をするが、何度やってもコインは表≠オか出ない。彼らは、確率によってどちらにころぶかわからない人生を生きているのではなく、確率が要因として働くことのない予め運命づけられた人生を生きている。
もちろん、「ハムレット」の通りに死ぬという運命だ。シェイクスピアのこの物語を知る人たちは、このコインの賭のシーンからすでに定められた運命を生きようとしているこのふたりを見て、ニンマリしてしまうことだろう。
しかし、この映画のなかで、ふたりがそんな運命を回避する機会が皆無だったというわけではない。
ローゼンクランツは鋭い直観の持ち主で、羽と玉を同時に落下させたらどちらが先に床に落ちるか試してみたり、樹から落ちるリンゴに何かを感じたり、リンゴの芯で作った風車と暖炉のやかんから吹き出す蒸気の組み合わせによって蒸気機関のモデルを作ってみたり、
飛行機のモデルを作ったりする。産業革命やら、ニュートンやら、アインシュタインやら、そこには、自然の法則やその法則を利用する力学によって世界を変える発想が暗示されている。言葉をかえるなら、ローゼンクランツは、
自然な確率でコインの裏がでるような世界に至るための糸口を気付かぬうちにたぐりよせているのだ。
そこで観客はこの映画のなかで、世界を動かす様々な法則や力学とあらかじめ運命づけられた人生を生きているふたりの奇妙な関係を、少し距離をおいた視点から見せられることになる。
ローゼンクランツは、鋭い直観によって自然の法則の糸口を見出したり、場合によってはそれを応用してみたりして、そのことを、ギルデンスターンに伝えようとする。しかし、直観的なローゼンクランツには、それを理論的に説明することができない。
一方、ギルデンスターンは、現実的な人間だけに理路整然とした思考能力を持ち合わせているが、残念なことに、彼はローゼンクランツの直観をまず受け入れてみるという寛容さ、あるいは、柔軟さをまったく持ち合わせていない。ふたりは、協力しているように見えながら、
実は、力をあわせて運命の不条理な力を援護してしまっているのだ。本当に力をあわせれば、彼らは、自然の法則を確かなものとして手にすることができるというのに。
この映画におけるふたりのキャラクターの可笑しさは、そんなところからきている。トム・ストッパードの脚本は、ユーモラスではあるけれどもただ軽いだけではなく、運命のドラマの本質、
人間の作る反自然的な世界の本質というものを自然の法則とのひねりの効いたコントラストで提示している。
絞首刑台にあげられたギルデンスターンは、「出だしのどこかで断れる瞬間があったはずだ。だが見逃した。次回は大丈夫だ」ともらすが、彼が見逃したのは、ローゼンクランツの直観というべきだろう。
現実的なギルデンスターンが、ローゼンクランツの発見/発明に整然とした裏付けを与え、悪夢から目覚めるか、あるいは、科学の力を大いに利用していたら、もしかしたら彼らの運命はくつがえされていたかもしれない。
そして、もし彼らが生き延びたとしたら、ローゼンクランツがはじいたコインからは、五分五分の確率で裏≠ェ出たに違いない。 |