『メッセージ そして、愛が残る』の主人公ネイサンは、ニューヨークの法律事務所に勤める敏腕弁護士だ。幼い息子を突然の病で亡くした彼は、そのショックから立ち直ることができず、妻や娘を別れて仕事に没頭する日々を送っている。
ある日、そんな彼の前にジョセフ・ケイと名乗る医師が現れる。その目的は判然としないが、ネイサンは彼が人の死を予見する能力を持っていることを知り、その力を目の当たりにして激しく動揺する。実はケイは、少年時代のネイサンが交通事故で臨死体験をしたときに、研修医としてそばに付き添っていた人物だったが、もちろんネイサンがそんなことを覚えているはずもない。
ケイは、死期が迫っている人間に遭遇すると不思議な光を見る。だが、そんなスーパーナチュラルな要素を意識しすぎると、この映画の魅力は半減してしまうだろう。
自身を“メッセンジャー”と位置づける彼は、何を求めているのか。それを明らかにする前に、死をめぐる現代の状況を確認しておくべきだろう。たとえば、ジョージ・リッツアの『マクドナルド化する社会』では、それが以下のように説明されている。
「死は、家庭の外に移され、死にゆく人とその家族の制御を離れ、医療従事者と病院の手に委ねられることになったのである。死が、誕生と同じく病院で起るようになってきたことによって、医師は、出産と同様に死も、高い程度で制御するようになった。一九〇〇年には、病院での死亡はわずか二〇パーセントであった。一九四九年には、それは五〇パーセントにまでなった。一九五八年までに六一パーセントとなり、一九七七年までに七〇パーセントに達した。その後一九九三年までには、病院での死亡数はしだいに減少したが(六五パーセント)、それには、養護施設で死ぬ人(一一パーセント)や、ホスピスのような施設で死ぬ人(二二パーセント)の数の増加を加えねばならない。このように、死は官僚制化されてきた。このことは合理化されてきたこと、そしてマクドナルド化さえされてきたことを意味している。マクドナルド化は、ファストフード・レストランから引きだされた原理を用いている病院のチェーン、そしてホスピスのチェーンさえもが発展していることに明白にあらわれている。マクドナルド化が死を制御するようになってきているのである」
ケイは、死が脱人間化されていく時代のなかで、極めて人間的な過程である死を取り戻そうとしている。この人物は、90年代前半にベストセラーとなる『人間らしい死にかた』を書き、全米図書賞を受賞したシャーウィン・B・ヌーランドを想起させる。
本書を読めば、この映画に盛り込まれたスーパーナチュナルな要素が便宜的なからくりであることがわかるはずだ。たとえば、ヌーランドは、著者としての自分の立場をこのように位置づけている。
「詩人やエッセイストや年代記作者、おどけ者や賢人などが、しばしば死について文章を書いているが、この人たちが死を目のあたりにすることはめったにない。一方、つねに死と接している医師や看護婦がそれについて書くこともめったにない。世の人びとはたいてい一生に一度か二度、死を目撃するが、感情的な面にとらわれるあまり、信頼できる記憶をもちつづけることができない。また、大量殺戮から生き残った人びとの場合、自分たちが見たことの恐ろしさにたいして防御的な心理作用が強烈に働くため、目撃した実際の出来事を悪夢のようなイメージとして歪めてしまう。そんなわけで、人がどんなふうに死んでいくかについての信頼できる文章はきわめて少ないのである」
イェール大学の外科・医学史教授だったヌーランドは、医師として35年に渡って多くの死と向き合ってきた。この映画のケイは、セントルイス病院の医局長という肩書きを持ち、病院の場面から察するにターミナルケアを通して同じように多くの死と向き合ってきたと思われる。
だが彼らはどちらも医師の立場だけから死をとらえているわけではない。ヌーランドはなぜ本書を書いたのか。まず、多くのアメリカ人が病院で息を引き取り、親しかった人びとと死の現実が隔てられていることがあげられる。さらにその一方では、現実の死に対する私たちの恐怖を和らげるために、死のプロセスが神話化されている背景もある。 |