80〜90年代の韓国を背景にした3作目の『悪いやつら』(12)では、賄賂で退職を迫られた税関職員イクヒョンが、暴力組織の若きボスで遠い親戚でもあったヒョンベに出会い、裏社会でのし上がっていく。だが、チョン・ドゥファンの後を継いだノ・テウ大統領が1990年に組織犯罪の一掃を目指す“犯罪との戦争”を宣言すると、二人の間に亀裂が生じるようになる。この映画の冒頭には、陸軍士官学校で同期だったチョン・ドゥファンとノ・テウが軍服姿で肩を並べる写真が映し出される。それは“犯罪との戦争”で対立しているように見えながら、政界も検察や警察も犯罪組織も根元には軍事主義があることを示唆している。そして、極道でも堅気でもない“ハンパ者”のイクヒョンは、そんな秩序に縛られた集団を巧みに利用することで、サバイバルしていくことになる。
では、この新作『群盗』ではどんな世界が切り拓かれるのか。ユン・ジョンビンは『悪いやつら』の完成直後から「次はこれまでとは完全に趣の異なる娯楽映画を作る」と予告していたという。しかし、そんな言葉を真に受けて、これが痛快娯楽時代劇だと思うのは大きな間違いだ。最近の韓国時代劇といえば、『王の涙‐イ・サンの決断‐』や『観相師‐かんそうし‐』、『王になった男』などが思い出されるが、『群盗』とそれらの作品には決定的な違いがある。この映画で権力の中心にいるのは王ではないし、王の座をめぐる陰謀が描かれることもない。
“土地の亡者”と呼ばれるようになるチョ・ユンと王の違いには重要な意味がある。ユンは最強の剣士ではあるが、庶子であるために高い官職につくことができない。そんな彼は、領主に取り入りはするが、王や悪徳官僚のようにただ公権力を笠に着て農民から搾取するわけではない。興味深いのは、ナレーションでユンと領主の結託が「史上初の官民合作事業」というように表現されることだ。しかも実際には、ユンが官を利用して農民から土地を収奪するからくりになっている。だからユンは涼しい顔で「商人の世が来てしまうとは世も末ですな」と語る。
ここでユン・ジョンビンが意識しているのが現代社会であることは明らかだ。このからくりは、これまで国家がコントロールしてきた広範な経済領域を市場や個人に委ねる現代の新自由主義と無関係ではない。もし権力者が王であれば、物語は歴史や伝統に縛られ、現代との接点は希薄になる。しかし、富豪による権力の私物化という設定を生み出せば、ユンの手法をサブプライムローンに、ユンという存在をウォール街に見立てることも不可能ではなくなる。
一方、と畜人トルムチのキャラクターにも注目すべき点がある。と畜人は奴婢と同じでどんな命令にも従うものだと信じていた彼は、義賊に救われ、二刀流の猛者トチへと変貌を遂げる。そんなトチの行動のなかでも特に印象に残るのが、民を虐げる官吏のまげを切り落とすことだ。ナレーションではそれが「命より髪とヒゲを重んじた朝鮮社会において、男性の象徴であるまげを切るトチの行為は、国の理念への挑戦とも言える過激なものであった」と説明される。そこには、これまでの作品で軍事主義に呪縛された個人や集団を描いてきたユン・ジョンビンならではの視点が埋め込まれている。
『群盗』は朝鮮王朝末期を背景にしているが、そこに描き出される世界は時代劇を突き抜けている。筆者は土地の亡者ユンをウォール街にたとえたが、映画のラストに至るとユン・ジョンビンが本気でそんなことを考えていたのではないかと思えてくる。ユンに対してトチと義賊が戦いを挑むだけではなく、農民たちも立ち上がる光景は、1%のスーパーリッチに対する99%の大衆の反乱と形容されるウォール街占拠運動を連想させるからだ。 |