こうした感情というのは、だいたい個人の顔が見えない集団のなかで流通する。ナ・ホンジンが関心を持っているのは、集団から引き離された個人がそうした状況と向き合うことになったときに、どのような感情を抱き、どのように対処するかということだ。
もともとジュンホが電話番号を手がかりに行動を起こしたのは、店の女たちのことを心配したからではない。彼女たちに渡した手付金を取り戻すためだ。問題は命ではなく金だった。
ナ・ホンジンは、そんなジュンホが個人として緊迫した事態と向き合わざるを得ない状況を巧みに作り上げていく。手がかりを求めて彼が訪ねる同業者は、店の女が消えても気にしていない。それはジュンホ自身の姿でもある。ひとりで留守番をしていたミジンの娘と行動をともにすることも、自分を見つめることに繋がる。さらに警察も、市長や検事の政治的な駆け引きに縛られ、役に立たない。
この映画を印象深いものにしているのは、そんな立場から引き出されるどうにもならないもどかしさと息苦しさだ。そして、惰性で生きているようなジュンホの心の底に埋もれていた痛みの感覚がよみがえる。
デイヴィド・B・モリスは『痛みの文化史』の冒頭で、「痛みは、恋愛がそうであるように、人間の最も基本的な体験に属しており、私たちのありのままの姿をあきらかにする」と書いている。ナ・ホンジンが描き出そうとするのは、そんな本来の自分に目覚めるような痛みだ。
この痛みというテーマについては、殺人犯ヨンミンの存在も重要な意味を持つ。なぜなら彼は、動機がどのようなものであれ、痛みの感覚を持たない人物として描かれているからだ。そしていうまでもなくそんな存在が、ジュンホの目覚めをより際立たせることになる。この映画では、実際の事件にインスパイアされた設定やキャラクターも、激烈なアクションも、生々しい暴力も、すべてこの痛みを呼び覚まし、浮き彫りにするためにある。
▼ナ・ホンジン最新公開作『哀しき獣』
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