『藍色夏恋』や『夢遊ハワイ』、『花蓮の夏』、そしてトム・リン監督のこの『九月に降る風』。台湾から届けられる青春映画が、心に響き、長く記憶に残るように感じるのは、決して偶然ではないだろう。
だいぶ昔のことになるが、ホウ・シャオシエン監督にインタビューして、彼の作品で子供や若者と老人の存在が際立つことについて尋ねたとき、彼はその理由のひとつとして台湾にはプロの俳優がいないことをあげていた。
プロの俳優と呼べるような人々が香港映画、あるいはテレビの世界に移ってしまったから、台湾のニューウェイブが俳優に頼らないようなスタイルを確立したのか、ニューウェイブが広がって俳優がいなくなったのか、調べたことがないのでよくわからないが、とにかく台湾映画では、新人を発掘し、等身大の若者の姿を描き出すことが、ひとつのカラーになっている。
そしてもうひとつ、台湾が置かれている状況も見逃せない。未来が見えない閉塞的な状況は、青春映画に独特の陰影を生み出している。たとえば、ツァイ・ミンリャン監督は、政治に関心を持ってないが、だからといって彼の映画と社会的な状況に繋がりがないわけではない。以前、ツァイ監督にインタビューしたとき、彼はそのことについてこのように語っていた。
「個人の生活というのは社会と絶対に切り離せないので、社会環境の気配というのが自分の作品の気配に影響するのは間違いないと思います。それは、私が興味を持たない政治とは少し違います。政治を語るのが大好きな人が私の映画を観ると、この父親は大陸出身者であろうとか、台湾出身者を象徴しているとか、いろいろ解説を加えてくれるのですが、私自身はまったくそういうことを考えていないのです。でも、環境がどのような状態であるのかは必ず個人に影響してくるはずで、私はそれを撮っています」
たとえば、イー・ツーイェン監督の『藍色夏恋』が記憶に残るのも、そんな状況と無縁ではない。この映画は、ヒロインのモン・クーロウと親友のリン・ユエチェンが校庭で、目を閉じてそれぞれの未来を想像する場面から始まる。リン・ユエチェンは幸福な結婚生活を思い浮かべる。だが、モン・クーロウには何も見えない。それは、彼女が親友に密かに想いを寄せているからだが、それだけではないだろう。この映画では、「見えない未来」が作品全体を覆い、陰影を生み出しているからだ。
このふたりの女子と奇妙な三角関係になるチャン・シーハオは、夜中にひとりでプールに忍び込み、泳ぎの練習をしている。そこにも、見えない未来や閉塞感を垣間見ることができる。そして、三角関係はこのプールの場面から始まる。
『九月に降る風』の設定は1996年の夏から1997年の夏までの1年間、台北郊外の街・新竹を舞台に、学年も違う7人の問題児と問題児に恋してしまったふたりの女子という9人の高校生の友情と恋が描き出される。
この映画にもプールが出てくる。7人の仲間たちはポケベルで連絡を取り合い、夜中に集合して学校のプールに忍び込み、全裸で泳ぐ。警備員の目をくらまし、はしゃぎまくる彼らは、閉塞感とは無縁のように見える。なぜなら彼らはプロ野球に熱中し、スター選手・寥敏雄(リャオ・ミンシュン)の活躍が希望をもたらしているからだ。 |