「イーリング・コメディみたいだと思った。60年代初頭のファミリー映画の偉大な作品をも彷彿させた。一市民が権力に真実を突きつける。『白衣の男』なども日常の政治問題を扱っていて、市井の人が政府に要求を突きつけたりする。この作品は一連のイーリング・コメディの流れを汲んでいる。ドタバタとも茶番劇とも違う軽妙なコメディ作品で、ペーソスとドラマがあるが笑えるところもある」
本作には、一方に、40年代末から50年代にかけてイーリング・スタジオが次々に生み出したコメディの面白さがある。ミッシェル監督は『白衣の男』(51)をあげているが、確かに2作品には通じるものがある。
VIDEO
アレック・ギネス扮する研究者シドニー・”シド”・ストラットンは、汚れず摩耗もしない繊維の開発に没頭している。だが、研究費がかさむため、クビになり、繊維会社を転々とする羽目に。それでも地道な努力が実り、「究極の繊維」が完成する。彼の発明は最初は賞賛されるが、その評価ががらりと変わる。繊維業界の経営者たちは、究極の繊維が商品化されれば、汚れず摩耗もしないために商品が売れなくなり、大打撃を被ると考え、工場の労働者たちも自分たちの仕事がなくなることを恐れ、シドは厄介者として追い回されることになる。
この映画では、周囲の態度がどう変わろうとも研究一本やりのシドがある種の道化的な存在となりながら、資本主義を風刺してみせる。本作も、ケンプトンが泥棒として、あるいは裁判における発言などである種の道化的な存在となりながら、高価な名画を購入することと孤独な年金受給者たちにBBCテレビの受信料を無料にし、娯楽を提供することをめぐって、公共の利益が問われる。
しかしもう一方では、50年代後半から60年代初頭にかけて、イギリスの小説や演劇、映画などで発展したキッチン・シンク・リアリズムとも明らかに繋がっている。先ほど引用したミッシェル監督のインタビューのなかで、「60年代初頭のファミリー映画の偉大な作品」という言葉が指しているのは、おそらく労働者階級の家族をリアリズムで描くようなキッチン・シンク・リアリズムの作品のことだと思われる。そこで、たとえば、泥棒という要素を踏まえるなら、『廃墟の欲望(A Place to go)』(63)などが思い出される。
VIDEO
主人公はロンドンの下町に両親と暮らし、たばこ工場で働く若者リッキー・フリント。労働者の惨めな生活から抜け出すことを夢見る彼は、資金を得るために、たばこ工場から商品を盗もうと計画している地元のギャングに協力するが...。この映画の見所は、リアリズムで描き出される労働者階級の生活や家族の姿だ。不安定な港湾労働の仕事に嫌気がさしたリッキーの父親がはじめるのは、フーディーニを思わせる鎖抜けの大道芸で、頑固で偏屈なイギリス人のオヤジを感じさせる。そんな父親、見守る母親、父親と息子の関係にはやはり本作に通じるものがある。『廃墟の欲望』は63年の映画で、61年に起こった事件を描く本作とは、時代背景もほぼ同じなので、家族が醸し出す雰囲気もよく似ている。
本作は、イーリング・コメディとキッチン・シンク・リアリズムの両方の魅力を引き継いでいる。だから、軽妙でありながらリアリティがあり、独特の味わいが心に残るのだ。