Jの悲劇
Enduring Love


2004年/イギリス/カラー/101分/シネスコ/ドルビーデジタル・DTS
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(初出:『Jの悲劇』劇場用パンフレット、若干の加筆)

 

冷徹な理論と人間的な罪悪感のパラドックス

 

 イアン・マキューアンの小説『愛の続き』には、制御不能に陥った気球から巻き起こる悲劇やド・クレランボー症候群の患者の出現によって翻弄され、関係が崩壊していく男女といったドラマティックな要素がある。そういう意味では、この小説は、映画化に相応しい題材だといえる。

 だが、一方にはひどく厄介な要素もある。マキューアンは、主人公ジョーを語り手として、内面の葛藤、動揺、強迫観念を克明に描き出していく。そんな内面の動きを、安易に説明的なドラマに置き換えてしまえば、マキューアンの鋭い洞察と豊かな表現によって切り開かれる物語の深みは失われてしまうだろう。

 『Jの悲劇』は、この難題と正面から向き合い、安易な説明を避け、映像表現で深みを生み出している。映画の導入部を観ただけでも、監督のロジャー・ミッチェルや脚色を手がけたジョー・ペンホールが、いかに原作を読み込み、独自のアイデアを練り、緻密に再構築しているのかがよくわかるはずだ。

 原作では、気球の事故があった晩に、ジェッドがジョーに電話し、「愛している」と告げる。ジョーはその事実を隣で寝ているクラリッサ(映画ではクレア)に打ち明けることができず、それが彼らの間に生じる亀裂の発端となる。映画には、そういうエピソードはない。しかし、ただ省かれているのではなく、まったく別のかたちで亀裂の発端が表現されているのだ。

 映画の冒頭では、気球の事故が描き出される。それは現在進行形のドラマに見えるが、その途中で4人の人物が語り合うディナーへと場面が変わり、ジョーとクレアが、友人であるロビンとレイチェルを前にして事故を振り返っていることがわかる。そのディナーの場面では、話の流れにそって何度かフラッシュバックが挿入されるが、そのなかにひとつだけ流れから浮いているフラッシュバックがある。

 たとえば、ジョーとジェッドがローガンの遺体にたどり着く場面は、そのまま食卓のジョーの台詞に引き継がれる。つまり、そのフラッシュバックはジョーの説明を意味する。しかし、ジョーがジェッドに乞われて祈る場面は違う。まだその場面が続いているうちに、気球に乗った子供がどうなったのかというレイチェルの質問がかぶさる。それが何を意味するのかといえば、ジョーの頭のなかにはその場面があるが、言葉では何も説明はしていないということだ。

 原作のジョーは、その場面で祈らない。逡巡しているうちに警官が駆けつけるのだ。映画の彼は、自分の意思に反して祈ったことが心に引っかかっている。だが、その事実を友人に語らないだけではなく、間違いなくクレアにも打ち明けていない。そこに実に巧妙に亀裂の発端が暗示されているのだ。

 もちろん、映画的な表現はそれだけではない。筆者がぜひとも注目したいのが、赤い色の使い方だ。原作には、ジェッドの存在と赤が結びつけられているところがある。図書館で尾行されているように感じたジョーは、一瞬視界に入った赤い紐つきの白いスニーカーを履いた人物を探し回る。赤い発光ダイオードが点灯する留守番電話には、ジェッドからのたくさんのメッセージが残されている。ジェッドは殺し屋を雇い、レストランで食事をするジョーたちを襲わせようとするが、その場面にはこんな記述がある。「最初に運ばれてきた食べ物はすべて赤い色だった」。


◆スタッフ◆

監督   ロジャー・ミッチェル
Roger Michell
脚本

ジョー・ペンホール
Joe Penhall

原作 イアン・マキューアン
Ian McEwan
撮影 ハリス・ザンバーラウコス
Haris Zambarloukos
編集 ニコラス・ガスター
Nicolas Gaster
音楽 ジェレミー・サムズ
Jeremy Sams

◆キャスト◆

ジョー   ダニエル・クレイグ
Daniel Craig
ジェッド リス・エヴァンス
Rhys Ifans
クレア サマンサ・モートン
Samantha Morton
ロビン ビル・ナイ
Bill Nighy
レイチェル スーザン・リンチ
Susan Lynch
ローガン夫人 ヘレン・マクロリー
Helen McCrory

(配給:ワイズポリシー)
 


 原作では、赤はジェッドの脅威の兆しとなるが、映画では、その色からもっと深い意味が引き出されている。すべての始まりとなる気球は、原作では灰色だが、映画では鮮やかな赤に変えられている。それは、ジェッドの存在と結びつく以前に、まずジョーの罪悪感と結びつく。彼は、空に舞う赤い風船を見て事件を思い出し、ロープから手を放した自分を責める。やがてその赤はジェッドと結びつくようになる。書店の外の赤いパラソル、赤いバス、赤いジャージの通行人、スイカなど、彼が現れる場面には赤がちらつく。そして、ジョーのなかで、罪悪感と同じように彼の存在が拭い去れないものとなっていく。

 この気球の事故のような体験をすれば、多くの人が罪悪感に苛まれるだろう。だが、その罪悪感に対する反応は、人によって違う。大学教授であるジョーは、科学、特に生物学を通して人間の営みを見つめてきた。彼の理論に従うなら、愛も芸術も道徳的な行為も犠牲も、人間のあらゆる複雑な行為は、人類の進化上の道具に過ぎないことになる。もちろん、罪悪感も例外ではないはずなのだが、いまの彼にはそれをどうすることもできない。

 この映画は、そんなジョーの分裂を、冒頭のフラッシュバックに通じる表現で巧みに描き出している。彼が悪夢にうなされ、目覚める場面には、それに続く大学の講義における彼の言葉がかぶさる。彼がギャラリーで、オブジェの赤い実に見入る場面には、それに続く彼と学生との議論がかぶさる。こうした表現は、理論と罪悪感の狭間で引き裂かれかけている彼が、必死に理論にすがりつき、罪悪感を押さえ込もうとしていることを意味する。

 そんな彼は、罪悪感とジェッドの存在の境界が曖昧になることによって、いっそう追い詰められるかに見える。クレアの理解を得られない彼は、大学の講義だけではなく、友人たちとのパーティでも理論を振りかざしてしまう。一方、ジェッドは、ジョーの聖域である講義にまで顔を出し、彼の理論を侵蝕していく。しかし、そこには皮肉なパラドックスがある。罪悪感とジェッドの境界が曖昧になるのは、不可抗力とばかりは言い切れない。

 ジョーは無意識のうちに、罪悪感から逃れるために、それとジェッドをすり替え、彼の行動を理論的に解明できれば、自分が救われるという幻想に取り憑かれていく。だから、ド・クレランボー症候群を発見したとき、まるで何かに勝利したように狂喜する。だが、彼自身は理論を追求しているつもりでも、傍から見れば、逆にジェッドに魅入られ、現実遊離し、妄想に囚われている。そして、ジェッド以上に凶暴にもなるのだ。

 ジョーの現実遊離は、先述したように元をたどれば、彼がジェッドと祈り、それをクレアに隠したことに始まるが、その三者が顔を合わせる終盤の場面は、祈りの場面と対置されている。祈りの場面では、彼らは本質的には何も共有していなかった。しかし、彼らが唇を合わせるとき、ジョーはジェッドに妄想に囚われた自分を見ているに違いない。そして、彼は、自分の鏡像でもあるジェッドとの関係を断ち切ることによって、呪縛を解かれる。

 ジョーを巻き込んだ一連の出来事は、決して単なる不運とはいえない。筆者は、ジョーと子供の距離の変化がそれを物語っているように思う。彼は、プロポーズの決心はしても子供は求めていなかった。そんな彼は、気球の少年を助けようとするが、その少年は彼から遠ざかっていく。ディナーで事故を振り返る場面では、赤ん坊の泣き声だけが響く。だが終盤で彼は、その赤ん坊を抱く。酔って無防備になっている彼は、その笑顔に心を揺り動かされる。そして最後には、ローガンの娘に、自分と彼女の父親に起ったことを正直に語る。

 気球の事故やジェッドは、生物学の理論に引きこもり、孤立していたジョーが、クレアを含めた他者との新たな関係を築き上げるために、犠牲を払ってでも乗り越えなければならない壁だったともいえるのだ。

《参照/引用文献》
『愛の続き』イアン・マキューアン●
小山太一訳(新潮社、2000年)

(upload:2006/07/01)
 
 
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