原作では、赤はジェッドの脅威の兆しとなるが、映画では、その色からもっと深い意味が引き出されている。すべての始まりとなる気球は、原作では灰色だが、映画では鮮やかな赤に変えられている。それは、ジェッドの存在と結びつく以前に、まずジョーの罪悪感と結びつく。彼は、空に舞う赤い風船を見て事件を思い出し、ロープから手を放した自分を責める。やがてその赤はジェッドと結びつくようになる。書店の外の赤いパラソル、赤いバス、赤いジャージの通行人、スイカなど、彼が現れる場面には赤がちらつく。そして、ジョーのなかで、罪悪感と同じように彼の存在が拭い去れないものとなっていく。
この気球の事故のような体験をすれば、多くの人が罪悪感に苛まれるだろう。だが、その罪悪感に対する反応は、人によって違う。大学教授であるジョーは、科学、特に生物学を通して人間の営みを見つめてきた。彼の理論に従うなら、愛も芸術も道徳的な行為も犠牲も、人間のあらゆる複雑な行為は、人類の進化上の道具に過ぎないことになる。もちろん、罪悪感も例外ではないはずなのだが、いまの彼にはそれをどうすることもできない。
この映画は、そんなジョーの分裂を、冒頭のフラッシュバックに通じる表現で巧みに描き出している。彼が悪夢にうなされ、目覚める場面には、それに続く大学の講義における彼の言葉がかぶさる。彼がギャラリーで、オブジェの赤い実に見入る場面には、それに続く彼と学生との議論がかぶさる。こうした表現は、理論と罪悪感の狭間で引き裂かれかけている彼が、必死に理論にすがりつき、罪悪感を押さえ込もうとしていることを意味する。
そんな彼は、罪悪感とジェッドの存在の境界が曖昧になることによって、いっそう追い詰められるかに見える。クレアの理解を得られない彼は、大学の講義だけではなく、友人たちとのパーティでも理論を振りかざしてしまう。一方、ジェッドは、ジョーの聖域である講義にまで顔を出し、彼の理論を侵蝕していく。しかし、そこには皮肉なパラドックスがある。罪悪感とジェッドの境界が曖昧になるのは、不可抗力とばかりは言い切れない。
ジョーは無意識のうちに、罪悪感から逃れるために、それとジェッドをすり替え、彼の行動を理論的に解明できれば、自分が救われるという幻想に取り憑かれていく。だから、ド・クレランボー症候群を発見したとき、まるで何かに勝利したように狂喜する。だが、彼自身は理論を追求しているつもりでも、傍から見れば、逆にジェッドに魅入られ、現実遊離し、妄想に囚われている。そして、ジェッド以上に凶暴にもなるのだ。
ジョーの現実遊離は、先述したように元をたどれば、彼がジェッドと祈り、それをクレアに隠したことに始まるが、その三者が顔を合わせる終盤の場面は、祈りの場面と対置されている。祈りの場面では、彼らは本質的には何も共有していなかった。しかし、彼らが唇を合わせるとき、ジョーはジェッドに妄想に囚われた自分を見ているに違いない。そして、彼は、自分の鏡像でもあるジェッドとの関係を断ち切ることによって、呪縛を解かれる。
ジョーを巻き込んだ一連の出来事は、決して単なる不運とはいえない。筆者は、ジョーと子供の距離の変化がそれを物語っているように思う。彼は、プロポーズの決心はしても子供は求めていなかった。そんな彼は、気球の少年を助けようとするが、その少年は彼から遠ざかっていく。ディナーで事故を振り返る場面では、赤ん坊の泣き声だけが響く。だが終盤で彼は、その赤ん坊を抱く。酔って無防備になっている彼は、その笑顔に心を揺り動かされる。そして最後には、ローガンの娘に、自分と彼女の父親に起ったことを正直に語る。
気球の事故やジェッドは、生物学の理論に引きこもり、孤立していたジョーが、クレアを含めた他者との新たな関係を築き上げるために、犠牲を払ってでも乗り越えなければならない壁だったともいえるのだ。 |