ハナがこのホッセイニに近い視点を持っていることは、『ハナのアフガンノート』(03)を観ればわかる。姉サミラの『午後の五時』のメイキングから発展したこのドキュメンタリーでは、カブールに生きる人々の恐れが映し出されている。その源にあるのは決してタリバンの圧政だけではない。ソ連の侵攻以来の戦争、飢餓、無秩序、そして圧政が恐れを生み出している。
さらに、この悲劇の歴史のなかには、皮肉な現実もある。『千の輝く太陽』に描かれているように、共産主義政権下のアフガニスタンでは、女性に自由と機会が与えられていた。しかし、ソ連の撤退とともに女性の権利は一掃されてしまう。これから先もいつなにが起こるかわからないという恐れが、母親から娘へと引き継がれていても不思議はない。
そして、ハナが子供を通して大人が作った世界に目を向ける『子供の情景』もまた、単にタリバンの圧政を描き出そうとする作品ではない。この映画の原題Buddha Collapsed out of Shame≠ヘ、彼女の父モフセンの著書『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』から引用されている。国際社会は、仏像の破壊には敏感に反応するのに、飢饉で100万人が死に瀕していることには無関心だった。そこでモフセンは以下のように解釈した。「仏像は、恥辱のために崩れ落ちたのだ。アフガニスタンの虐げられた人びとに対し世界がここまで無関心であることを恥じ、自らの偉大さなど何の足しにもならないと知って砕けたのだ」
この映画は、仏像が破壊されるのではなく、自ら砕ける場面から始まり、仏像が消失した空洞の前でドラマが展開していく。その空洞は、戦争、飢餓、無秩序、圧政によって支えを失った世界を象徴している。ハナはそんな世界のなかで、空洞を埋める支えや希望を見出そうとする。それはどこから生まれるのか。彼女は、子供が学ぶことから生まれると考えているように見える。
しかし、8歳で学校教育と決別し、父が設立したマフマルバフ・フィルム・スクールで映画と人生を学んだハナにとって、学べる場所=学校ではない。実際、バクタイが女子学校にたどり着いても、その授業は、彼女が鉛筆の代わりに持ってきた口紅によってお化粧ごっこになってしまう。少女たちの母親にとっては、化粧が許されるわずかな自由だったのだろう。だが、ただ大人の行動を真似ることは学ぶことではない。
この映画は、学ぶことをめぐって大きく前半と後半に分けることができる。バクタイが学校に行きたいと言い出したとき、隣に住む少年アッバスは鶏の卵でノートを手に入れるようにと知恵を授ける。だが、卵とノートを直接交換することはできない。そこでバクタイは、卵をパンに換え、お金に換え、ノートを手にする。彼女は自分で学び、主体性を持つようになる。そして、同じように少年たちに捕まり、袋をかぶせられた少女たちに出会うと、自分から行動を起こそうとする。
後半では、バクタイとアッバスが再び少年たちの戦争ごっこに巻き込まれる。そのとき、死んだふりをして少年たちから逃れたアッバスは、少年たちに囲まれて身動きがとれなくなっているバクタイに、自由になりたかったら死んだふりをするんだと知恵を授ける。だが、それは厳密には知恵とはいえない。アッバスが学んだことではなく、おそらくは大人の真似であるからだ。にもかかわらず、孤立するバクタイは主体性を捨て、アッバスの真似をしなければならなくなる。
そんなドラマには、ハナの深い悲しみと怒りを感じとることができるだろう。 |