中東から届けられる新しい映画は、その地域がいかに多様な問題を抱えているかを物語るだけでなく、それぞれに民族、国家、国境などをめぐる現実と幻想の著しいギャップが映画的な表現と結びついているところが興味深い。
ジャスティーン・シャピロ、B・Z・ゴールドバーグ、カルロス・ボラドという3人の監督の共同作品『プロミス』は、エルサレム近郊やパレスチナ自治区で、イスラエル、パレスチナ双方の子供たちに取材したドキュメンタリーである。その取材ではゴールドバーグがホスト役を務めている。
大して距離のないところに住みながら、閉ざされた環境でお互いのことを何も知らない子供たちが、この第三者の話し相手を得ることで、日常に共通の関心事を見出し、状況を相対的にとらえようとする姿には心を揺り動かされる。
それに加えてこの映画の作り手は、双方の子供を引き合わせる手助けまでしてしまう。最初に組織による継続性を持った活動があって、それを記録するというのではなく、映画としてそこまで踏み込むのはかなり大胆なことだ。そして、そんな試みを作品として完結させるためには、ふたつの方法が考えられる。
ひとつは、ドキュ=ドラマとしてテーマを掘り下げていくことだ。しかしこの映画はもうひとつの方法をとる。つまり、ドキュメンタリーとして現実に介入することの限界を子供たちの前に露呈するのだ。子供たちは、映画の現実と社会の現実のギャップを敏感に察知するようになり、そこから彼らの希望や未来を閉ざす大人の世界が浮かび上がるのだ。
モフセン・マフバルバフがイラン国内のアフガン難民の子供たち、その教育の現場に目を向けた中編ドキュメンタリー『アフガン・アルファベット』では、子供たち、なかでも特に女の子たちが、二重の意味で国家に翻弄されていることが浮き彫りにされる。ひとつはもちろん国を追われた難民ということだが、同時に彼女たちは過去の世界に深く囚われてもいる。
カメラは、ブルカに隠れ、顔を出すことを頑なに拒む少女に注目する。彼女はかつてのタリバンの最高指導者をいまも信じ、こんな言葉を呪文のように繰り返す。「オマル師は預言者の作った箱に奥さんだけ入れて、好きな時に箱を開けて匂いをかぐの。決して奥さんを外には出さないのよ」。そんな少女は、友だちの真剣な説得についに心を開く。彼女が最後に見せるのは、まさしく目覚めの表情である。
そして、こうした新作のなかでも特に印象的だったのが、クルド人の問題を扱った作品だ。トルコ、イラン、イラク、シリアにまたがり、クルディスタンと呼ばれる山岳地帯に生活する彼らは、その数2千万とも3千万ともいわれ、国家を持たないがゆえに、独立や自治をめぐって様々な苦難を強いられてきた。
映画のなかのクルド人で真っ先に思い出されるのは、ユルマズ・ギュネイの82年のトルコ映画『路』だ。これは、仮出所を許された5人の男たちを主人公に、男女の関係を通してトルコ社会の矛盾を描きだす作品で、クルド人の存在を公言することすら許されない状況のもとで、クルド問題を他のエピソードとまったく同等に扱っていたことにも大きな意味があったといえる。
そんなトルコ映画界の先達を尊敬する女性監督イエスィム・ウスタオウルの長編第2作が『遥かなるクルディスタン』だ。イスタンブールに住むトルコ人の主人公メフメットは、サッカー中継に興奮した暴徒に襲われかけたことがきっかけで、クルド人のベルザンと友だちになる。
クルド人は肌の色が濃いという先入観があるためか、メフメットはたびたびクルド人と間違われてきたが、ある晩、身に覚えのない拳銃不法所持の容疑で逮捕され、完全にクルド人のレッテルを張られてしまう。その結果、生活の手段を奪われていくが、同時にベルザンがいっそう身近な存在となる。
メフメットは物語の半ばで、この親友を失う悲劇に見舞われるが、後半ではある意味でさらに彼に近づいていく。親友の亡骸を葬るためにクルディスタンへと旅立つのだ。視野が限定された都市と広がる大地の対照は、親友の過去、内面へと向かうこの旅を印象深いものにする。しかしそこで彼は、悲惨な現実も目の当たりにしなければならない。この映画は、そんな主人公の眼差しを通して、クルド人体験に新たな光をあてる。
一方、イラン映画のなかのクルド人といえば、アッバス・キアロスタミ監督の『風が吹くまま』やサミラ・マフマルバフ監督の『ブラックボード 背負う人』が記憶に新しい。そして、この2作品で助監督や俳優を務めたバフマン・ゴバディが、イランで最初のクルド人監督としてデビューを飾った作品が『酔っぱらった馬の時間』だ。
この映画では、イラク国境に近いイラン領クルディスタンにある小さな村を舞台に、両親を亡くした5人の子供たちが、難病の長男の面倒をみながら、助け合って生き抜いていこうとする姿が描かれる。 |