戦禍を逃れるために非難したイランから、イラク領内の故郷に戻ろうとするクルド人の老人たち。爆撃で学校を失い、教職を求めて彷徨う教師たち。危険を冒して密輸物資を運ぶ少年たち。イランの国境地帯を舞台に、異なる世代の人々の絆と断絶が浮かび上がる。
イラン・イラク戦争の最中の84年、イラク軍は領内のクルド人の村ハブラチェを化学兵器で攻撃し、生き残ったわずかな住人はイラン領内に避難した。17歳にして『りんご』で監督デビューを飾ったサミラ・マフマルバフの新作『ブラックボード』の物語は、そんな実話がもとになっている。しかし、脚本を書いているのが、彼女の父親モフセンだけに、物語は奔放な広がりを持っている。しかも、80年生まれのサミラが描くのは、戦争でも民族でも宗教でもない。
この映画の冒頭では、黒板を背負った男たちが険しい山道を歩いていく。爆音らしきものを聞きつけた彼らは、岩陰に駆け込み、黒板を寄せ合いながら這いつくばる。何とも奇妙な光景である。しかし終盤で、少年たちが四つん這いになって羊の群れに紛れ、老人たちが同じく四つん這いで逃げ惑うとき、それは奇妙ではなく恐ろしい光景に変わっている。
必ずしも銃撃が恐ろしいのではない。この映画には具体的な銃撃はほとんど描かれない。登場人物たちには、自分たちの目的以外のことを考える余地がなく、調教されたように這いつくばる。その姿が恐ろしいのだ。サミラはそんな彼らの姿から、戦争に限らない重圧をとらえてみせる。
教師たちが背負う黒板は、知識だけではなく映画そのものをも象徴しているに違いない。教師たちは黒板が目立たないように表面に泥を塗るが、イラン映画もこれまで児童映画といった体裁で検閲を潜り抜け、社会を見つめてきた。その黒板はこの映画で、骨折した足の支えなど、別の用途に役立てられていく。サミラはそんな黒板を通して、映画が運命に囚われた人々にどれだけ近づき、何を残せるのか、自分に問いかけているのかもしれない。
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