ホン・サンス監督の『気まぐれな唇』には、何度も繰り返し観たくなるような魅力がある。かつて俳優たちと特別な信頼関係を築き、生身の人間の感情を描きだしたジョン・カサヴェテスは、自分の作品についてこのように語っている。
「多くの監督は自分が何をしているか知っている。ぼくは翌日になるまで知らない。ぼくらの映画が人生と似たようなものだと思われているのは、人生につきものの何か曖昧なものが映画の中にあるからだ。明日何が起きるかなんて決められるわけがない」
この『気まぐれな唇』にも、そんな「人生につきものの何か曖昧なもの」が確かにある。だから繰り返し観たくなるのだ。
カサヴェテスは、即興的な要素を重視していたが、それ以前に彼の映画には脚本があった。だから、翌日のことがわからないという表現は、すべてを即興に委ねることを意味しているのではない。再び本人の言葉を引用するなら、「脚本を読むことはできても、誰かがそれをどう演技解釈するのか監督は知らない」ということだ。
『気まぐれな唇』でホン・サンスは、登場人物に対する鋭い洞察と即興性を重視した演出によって、男と女の感情の機微をとらえているが、やはりすべてを即興に委ねているわけではない。
この映画には、もう一方で驚くほど緻密な構成がある。俳優のギョンスは一週間の旅のなかで、ミョンスクとソニョンという二人の女に出会うが、ふたつのロマンスの状況には呼応する要素が多々ある。
男と女は酒を飲みながら親密になる。彼らは、ホテルに行ってセックスし、間を置いて部屋を出る前にもう一度セックスする。関係を持った男と女は、また会うための駆け引きを繰り広げ、女たちはそっくりなメッセージを男に残す。そのロマンスの鍵を握るのは、ギョンスの先輩であるソンウやソニョンの夫というもうひとりの男が絡む三角関係であり、「愛してる」という言葉である。
そして、このように様々な接点を持つ緻密な構成に沿って、現場で男と女の感情が掘り下げられていくとき、そこに皮肉なコントラストが生まれ、「人生につきものの何か曖昧なもの」が浮かび上がってくるのである。
この映画のなかで、ギョンスはいつも女を見ている。先輩のソンウと名所見物に行けば、一人旅の女子大生に目が行き、ひとりで店で食事をすれば、そばに座っているアベックの女の脚を見つめている(このふたつのエピソードは、それぞれその後に生まれる三角関係を予告しているともいえる)。
そして、ミョンスクやソニョンと寝ると、腰を激しく動かしながら、どんなセックスが好きかという話を始める。要するに彼は、女好きだが、女がわかってない男であり、ロマンスの出発点ではほとんど同じことを繰り返しているに過ぎない。しかし、ふたつのロマンスのなかで、男と女の関係は見事に逆転していく。
ギョンスのファンであるミョンスクは、彼を大胆に誘惑する。酒の席ではキスを迫り、帰り道では車から誘い出し、さり気なくラブホテルへと誘導していく。彼女はベッドで「愛してる」という言葉を執拗に求めるが、その場限りの関係だと思っているギョンスは、「かわいい」という言葉とセックスでごまかそうとする。つまり、最初のロマンスでは、ギョンスが関係をうやむやにするために、もう一度セックスするのだ。それを見透かしているミョンスクは、ソンウになびく仕草を見せて、なんとか彼を引き寄せようとする。 |