■■修道士たちはなぜアルジェリアに残ったか■■
1990年代のアルジェリア。人里離れた村にある修道院でカトリックのフランス人修道士たちが、厳格な戒律に従い禁欲的な生活を送っている。彼らは礼拝を行い、畑を耕し、イスラム教徒の住民と親交を深め、弱者や貧者に奉仕する。だが、吹き荒れる内戦の嵐はこの辺境の地にも押し寄せ、非イスラム教徒の外国人が標的となり、命を奪われていく。そこで修道士たちは土地を去るか残るかの選択を迫られる。
グザヴィエ・ボーヴォワ監督の『神々と男たち』は、1996年にアルジェリアで起きたGIA(武装イスラム集団)によるとされるフランス人修道士誘拐・殺害事件を題材にしている。この事件は未だに不明な点が多く、謎が残されている。事件の背景には、アルジェリアと旧宗主国フランス、政治とイスラムの関係などが複雑に絡み合っている。
だが、この事件に最初に注目し、草稿を書いたエティエンヌ・コマールと監督のボーヴォワは、事件の真相に迫ろうとしているわけではないし、事件を通して背景を炙り出そうとしているわけでもない。彼らの関心は、内戦が激化するなかでなぜ修道士たちがアルジェリアに残る決心をしたのかに絞り込まれている。
だから背景については、映画から読みとれる状況だけで事足りる。当時は軍とGIAという対立する二つの勢力が権力争いをしていた。当局側の軍も度を越した弾圧を行っていた。内戦がどれほどの混乱を生み出していたかは、スペインの作家フアン・ゴイティソーロのこんな記述から察することができるだろう。「いったい誰が、誰を殺しているのか。アルジェリア国民が陥っているパラノイアの下で、確信を持ってこの問いに答えることができる者はいない」(『嵐の中のアルジェリア』)
もうひとつ印象に残るのが女性の立場だ。村で開かれたパーティの場面では、村の男たちと修道士が祈りを捧げているあいだ、女たちは別室で世間話をしている。彼女たちは修道士には心を開き、悩みを打ち明ける。非常に厳格で時代錯誤的ともいわれる家族法に縛られた彼女たちにとっては、修道士の存在が救いになっていた。
■■ともに生きる男たちに神を見出す■■
では、ボーヴォワとカトリック信者のコマールの関心は、映画にどのように反映されているのか。まず注目すべきなのは、冒頭で引用される「私は言う、あなた方は皆 神々である。しかし人間として死ぬだろう」という詩篇82章の6‐7節にあたる言葉だ。この引用は様々な意味で映画と深く結びついている。
まずそこから題名がとられている。引用のなかの「人間」が題名では「男たち」になっているが、どちらも“des hommes”だ。フランス語の原題は“Des hommes et des dieux”で、邦題では「男たち」と「神々」の順序が入れ替わっている。引用の流れからすれば、邦題が自然に見えるが、筆者は原題で引用とは順序を逆にしているところに意味があると思っている(そのことについては後述する)。
詩篇が聖書の一部であると同時に、礼拝に用いられてきた詩文でもあるということにも注目する必要がある。この映画では導入部から礼拝が繰り返し描かれる。たとえば、修道士を取り巻く状況が変化するような事件が起こったとき、修道士の反応や話し合いよりも前に、まず礼拝が描かれ、物語だけに依存しない流れを作り上げている。 |