オウム真理教の事件を題材に、カルトの子どものその後を描く塩田明彦監督の『カナリア』は、12歳の光一が関西の児童相談所を脱走するところから始まる。光一と妹は、母親に導かれてカルト教団<ニルヴァーナ>の信者となり、施設で数年を過ごしたが、教団がテロ事件を引き起こしたことから警察に保護された。
しかし、子どもたちのなかで彼だけが、新しい環境に順応することを拒み、彼の祖父は妹だけを引き取った。施設を脱走した彼は、軽はずみな行動から男に拉致されかけていた由希という12歳の少女を偶然助け、彼女とともに東京に向かう。妹を取り戻し、逃亡している教団幹部の母親を探し出し、また一緒に暮らすために。
塩田監督はこれまで、10代を主人公にした物語を通して、様々なイニシエーション=通過儀礼を描きだしてきた。『月光の囁き』では、マゾヒストの拓也が、紗月の犬になり、彼女の言葉に従って滝壷に飛び込むことによって、SMとは異質なふたりだけの関係を確立していく。人間が動物の立場になったり、死をくぐり抜けることは、まさにSMを越えた儀式だといえる。
『どこまでもいこう』では、アキラが、悪ガキコンビだった光一との確執や親しくなった同級生の死を通して、変わっていく。彼にとって、どこまでもいくことが、単に遠くにいくことから内面的な世界の広がりへと移行するのだ。『害虫』では、苛酷な現実と向き合う中学生のサチ子が、当たり屋という度胸試しや友人宅への放火によって自分を社会から切り離し、現代社会への加入を拒絶、あるいはその意味を否定するかのように、堕ちていく。
『カナリア』が描くのもイニシエーションだが、これまでの作品とは大きな違いがある。その違いやこの映画の主人公の立場を明確にするためには、現代におけるイニシエーションとオウム真理教の関係を確認しておく必要があるだろう。
河合隼雄総編集の『心理療法とイニシエーション』には、以下のような記述がある。「制度としてのイニシエーションは、近代社会において消滅した。(中略)言うなれば、各人はそれぞれのイニシエーションを自前で自作自演しなくてはならなくなった」「イニシエーションという言葉は、不幸にもオウム真理教という事件と関連して、一般の人々に、強い負荷を背負って知られることになってしまった。しかし、イニシエーションということは、現代人にとって極めて重要なことと筆者は思っている。だからこそ、オウム真理教もそれによって、知的に高い若者たちを惹きつける力をもったのであろう」。 |