カナリア
Canary  Kanaria
(2005) on IMDb


2004年/日本/カラー/132分/ヴィスタ
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(初出:「Cut」2005年1月号、映画の境界線41より抜粋、若干の加筆)

 

 

イニシエーションなき時代のなかから
紡ぎ出される神話的な物語

 

 オウム真理教の事件を題材に、カルトの子どものその後を描く塩田明彦監督の『カナリア』は、12歳の光一が関西の児童相談所を脱走するところから始まる。光一と妹は、母親に導かれてカルト教団<ニルヴァーナ>の信者となり、施設で数年を過ごしたが、教団がテロ事件を引き起こしたことから警察に保護された。

 しかし、子どもたちのなかで彼だけが、新しい環境に順応することを拒み、彼の祖父は妹だけを引き取った。施設を脱走した彼は、軽はずみな行動から男に拉致されかけていた由希という12歳の少女を偶然助け、彼女とともに東京に向かう。妹を取り戻し、逃亡している教団幹部の母親を探し出し、また一緒に暮らすために。

 塩田監督はこれまで、10代を主人公にした物語を通して、様々なイニシエーション=通過儀礼を描きだしてきた。『月光の囁き』では、マゾヒストの拓也が、紗月の犬になり、彼女の言葉に従って滝壷に飛び込むことによって、SMとは異質なふたりだけの関係を確立していく。人間が動物の立場になったり、死をくぐり抜けることは、まさにSMを越えた儀式だといえる。

 『どこまでもいこう』では、アキラが、悪ガキコンビだった光一との確執や親しくなった同級生の死を通して、変わっていく。彼にとって、どこまでもいくことが、単に遠くにいくことから内面的な世界の広がりへと移行するのだ。『害虫』では、苛酷な現実と向き合う中学生のサチ子が、当たり屋という度胸試しや友人宅への放火によって自分を社会から切り離し、現代社会への加入を拒絶、あるいはその意味を否定するかのように、堕ちていく。

 『カナリア』が描くのもイニシエーションだが、これまでの作品とは大きな違いがある。その違いやこの映画の主人公の立場を明確にするためには、現代におけるイニシエーションとオウム真理教の関係を確認しておく必要があるだろう。

 河合隼雄総編集の『心理療法とイニシエーション』には、以下のような記述がある。「制度としてのイニシエーションは、近代社会において消滅した。(中略)言うなれば、各人はそれぞれのイニシエーションを自前で自作自演しなくてはならなくなった」「イニシエーションという言葉は、不幸にもオウム真理教という事件と関連して、一般の人々に、強い負荷を背負って知られることになってしまった。しかし、イニシエーションということは、現代人にとって極めて重要なことと筆者は思っている。だからこそ、オウム真理教もそれによって、知的に高い若者たちを惹きつける力をもったのであろう」


◆スタッフ◆

監督/脚本   塩田明彦
撮影 山崎裕
編集 深野俊英
音楽 大友良英

◆キャスト◆

岩瀬光一   石田法嗣
新名由希 谷村美月
伊沢彰 西島秀俊
咲樹 りょう
つぐみ
岩瀬道子 甲田益也子
光一の祖父 品川徹
信者・ジュナーナ 水橋研二
吉岡 戸田昌宏
老婆 井上雪子

(配給:シネカノン)
 


 さらに、鎌田東二の『呪殺・魔境論』では、同じことが以下のように表現されている。「子どもが大人になるということ、そして一個の人格が理想的な形態に向上・成長し、変身・変容していくことについて、戦後社会は完全にモデルと方法を喪失し、"イニシエーションなき社会"になってしまったのだ」「オウム真理教ほど明確にイニシエーションの重要性を訴えかけた教団はなかったことが教勢拡大の最大の原因だったと思う」

 塩田監督がこれまでの作品で掘り下げてきたのは、いわば自前のイニシエーションだった。それに対して『カナリア』では、光一と由希を通して、その本質はどうあれイニシエーションを前面に出した教団とイニシエーションなき社会というふたつの世界が対置される。それが、異なる世界を切り拓く基盤になっているのだ。

 これまでの作品では、『月光の囁き』の拓也、『どこまでもいこう』の光一、『害虫』のサチ子など、自前のイニシエーションの背景には、常に父親の不在があった。『どこまでもいこう』の物語の中心的な存在はアキラだが、母子家庭で妹の世話をする光一にここで注目しておくことには意味がある。『カナリア』の光一は、明らかにそこから発展してきているからだ。

 その『カナリア』の光一の前には、父親的な存在が立ちはだかる。教団はイニシエーションとして母親と彼の絆を断ち切ろうとする。彼は母親を取り戻すために、教育係や幹部に反抗し、あるいは修行の階段を駆け上がっていく。そしてイニシエーションは、教団から解放されてもつづく。彼の前には祖父が立ちはだかるからだ。彼は祖父に殺意を抱き、ドライバーの先を研ぎつづける。突き詰めれば、母親を取り戻すためには、父親的な存在を殺さなければならないのだ。こうして、教団を契機としたイニシエーションは、神話的な物語になっていく。

 由希はそんな光一を説得しようとするが、教団の悪事を批判するだけの正論では通用しない。彼女自身が、イニシエーションなき社会で、出口もなく彷徨っている人間であるからだ。彼女が個人でできることといえば、出会い系サイトで金を稼ぐことだが、光一は暴力でそれを阻止する。そして今度は彼女が光一の世界に踏みだす。彼女もまた神話を共有し、彼のドライバーを引き継ごうとする。つまり彼らは、ふたつの世界の狭間でせめぎあいながら、個人的で普遍的でもあるイニシエーションに至ることになるのだ。

《参照/引用文献》
『講座心理療法第1巻 心理療法とイニシエーション』●
河合隼雄総編集(岩波書店、2000年)
『呪殺・魔境論』●
鎌田東二(集英社、2004年)

(upload:2006/07/01)
 
 
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