花様年華
In the Mood for Love  Fa yeung nin wa
(2000) on IMDb


2000年/香港/カラー/98分/ヨーロピアンヴィスタ/ドルビー
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(初出:「キネマ旬報」2001年4月下旬号)

 

 

決定的な一分間を回避しつづける男と女

 

 ウォン・カーウァイの代表作『欲望の翼』は、もともと二部で構成される連作となるはずだったが、残念ながら続編は作られることがなかった。カーウァイは新作の『花様年華』について、幻となった『欲望の翼』の続編とみなすことも可能な作品と評している。

 確かに、二本の映画の背景や設定には多くの共通点がある。まず、どちらも六十年代の香港を舞台としている。レベッカ・パンがそれぞれの映画で扮するヨディの養母とミセス・スーエンは、ともにアメリカに渡る。そして、ヨディはフィリピン、ミスター・チャウはシンガポール、カンボジアというように、どちらの主人公も香港から南へと向かう。

 さらに筆者が印象的だったのは、マギー・チャン扮するキャラクターとスリッパという小道具の関係だ。『欲望の翼』には、マギー扮するスーがヨディの部屋に自分の荷物を取りに行く場面がある。その時、部屋にはダンサーのミミもいて、彼女がスーのスリッパを履いている。しかしミミはスリッパを脱ごうとせず、挙句にそれを窓から投げ捨てる。それ以後、ヨディとスーが顔を合わせることはない。『花様年華』でも、マギー扮するチャンがチャウの部屋で使っていたスリッパが、彼らの別れのサインとなる。チャンは密かにそれを持ち去り、代わりに口紅のついた煙草の吸殻を残していくのだ。

 この小道具にまで反映された共通点は、『欲望の翼』に対するカーウァイの思い入れと、そして『花様年華』を作るにあたって彼がいかに『欲望の翼』を意識していたのかを物語っている。しかしそれでも、『花様年華』は、遥か以前に作られていたかもしれない『欲望の翼』の続編とは、何かが決定的に違っているはずだ。筆者には、カーウァイがこの新作で、あえて『欲望の翼』に通じる背景や設定を選ぶことによって、逆に『欲望の翼』を作った時点といま彼が生きる世界との違いを明確にしているように思える。


◆スタッフ◆

監督/脚本/製作
ウォン・カーウァイ(王家衛)
Wong Kar-wai
製作総指揮 チャン・イーチェン
Chan Ye-cheng
撮影 クリストファー・ドイル(杜可風)/ リー・ピンビン(李屏賓)
Christopher Doyle
編集 ウィリアム・チャン
William Chang Suk-ping
音楽 マイケル・ガラッソ
Michael Galasso

◆キャスト◆

ミスター・チャウ
トニー・レオン(梁朝偉)
Tony Leung Chiu-wai
ミセス・チャン マギー・チャン(張曼玉)
Maggie Cheung Man-yuk
ミセス・スーエン レベッカ・パン(潘迪華)
Rebecca Pan
ミスター・ホー ライ・チン
アーピン スー・ピンラン
(配給:松竹)
 
 
 
 


 とはいうものの、『花様年華』は、『欲望の翼』との決定的な違いを云々するには、あまりにもシンプルな物語に見える。偶然にも同じ日に隣り合う部屋に越してきたチャウとチャン。お互いに既婚者である彼らは、それぞれの伴侶の不倫に気づき、次第に接近していく。しかし最後の一線を越えることなく別れ、記憶だけが残る。

 キャメラはほとんどふたりを見つめ、彼らの伴侶の存在は、後ろ姿や声を除いて観客の視野の外にある。計算されたフレームから浮かび上がるふたりの表情、視線、会話、さり気ない仕草には、それぞれの内に秘めた感情が滲み、映像は、禁欲的でかつ官能的な美学に貫かれている。しかしこれは、そうしたスタイルが際立つだけの映画ではない。

 『欲望の翼』と『花様年華』を隔てる十年間には、97年の香港返還という出来事がある。『花様年華』は、カーウァイにとって返還後、最初の監督作となる。この返還が大きな意味を持つことは、返還前の最後の監督作である『ブエノスアイレス』を振り返ってみれば、容易に察することができる。

 この映画では、アルゼンチンを舞台にすることによって、カーウァイの世界の特徴が明確になると同時に、後半でその世界の変化を見ることができる。主人公のファイとウィンは、アルゼンチンでも香港と何ら変わらない生活を送る。彼らがよりを戻すことは、彼らの記憶を再生、反復することであり、アルゼンチンにいることには意味がない。カーウァイ作品の登場人物の多くは、記憶にとらわれ、どこに行ってもどこにも行っていないような時空を生きているのだ。

 しかしファイは、台湾から来たチャンと出会うことで、変貌していく。チャンは兵役につく前に世界の果てを確認しようとする旅行者であり、限られた時間のなかで、いま、ここにある現実を生きている。同じ現実に目覚めるファイは、自分を取り巻いていたはずの香港の記憶が消失するために、耐えがたい孤独を味わう。と同時に、自分の足元、地球の裏側にある香港を再発見する。そして、これまで常に、ウィンの「やり直そう」という言葉を待っていた彼は、迷惑をかけた父親への手紙の最後で、自らその言葉を使い、返還の年に「やり直す」ために香港に戻ってくる。 アルゼンチンに取り残され、記憶を生きるしかないウィンは、消え去る香港を象徴しているともいえる。

 『花様年華』でカーウァイは、このファイの体験を通過した場所から、60年代という時代を見つめている。だから、『欲望の翼』と『花様年華』から見えてくるものには、ある意味で対照的ともいえる違いがあるのだ。

 『欲望の翼』の核心にあるのは、ヨディとスーが過ごす一分という時間である。この一分の関係が他の登場人物にも作用し、複数のドラマを紡ぎだし、そして最後に一分の記憶へと収斂する。一分というこの時間は、置き換え難く完結しているがゆえに、人々を深くとらえ、記憶や夢の世界で引き伸ばされていくのだ。それでは、『花様年華』のチャウとチャンの関係のなかで、この一分に相当する時間は一体どこにあるのだろうか。その答は、一分は存在しないというべきだろう。

 カーウァイは『欲望の翼』では、有無を言わせずいきなり一分の関係から物語を切りだし、それが映画の中核をなす。これに対して『花様年華』では、主人公たちが接近していくような状況を、遠巻きに築きあげていく。たとえば、それぞれの伴侶の不倫は、日本というここではない外部と結びつけられ、あたかも主人公たちが取り残されているような印象を与える。ふたりはそれぞれ、家主のアパートのなかに部屋を借りているため、プライバシーは在って無いようなもので、いつも賑やかな家主一家との生活では、自分たちの孤独を意識せざるをえない。また、 潔白の関係であるにもかかわらず、家主の目を気にし、まるで不倫関係であるかのように振舞う必要まで出てくる。

 彼らは二人だけでお茶を飲むだけで、すでにそこには親密な空気が漂ってしまう。それでも一分間が訪れることはない。彼らは単に一線を越えないのではなく、この決定的な時間を回避しつづけるのだ。彼らは故意に自分の伴侶の話題を持ちだし、相手にダブらせてみる。やがてチャウは新聞の連載小説の執筆を始め、ふたりは、許されぬ恋に落ちた男女が、過去にたどったであろう、未来にたどるであろうドラマをなぞっていく。その架空のドラマに揺れる感情を埋め込むのだ。

 この映画には、現在進行形のドラマの流れに、すでにそれを遠くから見つめているような眼差しがある。それはカーウァイが、決定的な一分という核心を欠いた、あらかじめ失われた時間に、男と女の親密な関係を投影しているからだろう。そこには二重の喪失感が刻み込まれている。時間原則と香港返還という二重の意味で、取り戻せない過去をとらえようとすることが、独特の官能と淡さを生みだしているのだ。

 そして、『ブエノスアイレス』でファイが、消え去る香港を象徴するウィンを失った哀しみを、チャンに託して、地の果ての灯台から捨て去ったように、『花様年華』のチャウもまた、あらかじめ失われ、決して成就されることのない愛の哀しみを、アンコール・ワットという廃墟に封印するのである。


(upload:2001/07/16)
 
 

《関連リンク》
『ブエノスアイレス』 レビュー ■
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