ウィンは同じ場所に長くとどまることができない人間であり、あちこちで出会った人間に寄生する。しかしそんな生活に疲れ、孤独になるとファイのもとに戻ってくる。帰る場所が確保されれば、彼はパトロンに楯突き、痛めつけられる。それも手続きの一部なのだ。そしてファイのもとに戻ると、この生活者の価値観を正当化する唯一の証人となる。
『恋する惑星』でトニー扮する警官633号は、スチュワーデスにふられると、新しい飛行機の着陸に備えて掃除を始めるが、ファイの場合は同じ飛行機でなければならない。彼らは長い間にそういう関係を培い、どこでも同じ手続きを踏む。だからこの段階で彼らがアルゼンチンにいることにはほとんど意味がない。この映画で最初に映しだされるイグアスの滝は、彼らとアルゼンチンの距離を物語るためにある。
彼らにとってこの滝は、スタンドの光に浮かび上がる幻影でしかないからだ。しかし終盤に再度イグアスの滝が映しだされるまでに、彼らの間にはただ別れるのとは違う、興味深い変化が起こっている。
そのきっかけを作るのはチャンの存在だ。このチャンはドラマのなかでファイに対してそれほど具体的な影響を及ぼしているようには見えない。彼らは突っ込んだ話をするわけでもなく、常に一定の距離を置いている。その関係はきわめて曖昧だ。しかし、ひとつだけはっきりしていることがある。それは、チャンが帰る場所をアルゼンチンのなかにまったく求めていない旅行者であるということだ。だからこそ、ファイはチャンへの特別な想いを口に出すことはできず、想いつづけることが彼を確実に変えていく。
ファイは初めて旅行者の視点で自分やまわりを見るようになるのだ。それは決して楽なことではない。まず彼は、生活者として感じたことのない類の孤独に苛まれる。そして、これではウィンと何の違いもないと思いながら、刹那的な温もりを求めて夜のブエノスアイレスを徘徊する。しかし同時に彼は、地球の裏側、足下にある香港を身近に感じられるようになる。これまでも彼はアルゼンチンで香港と変わらない生活を送ってきたが、それは無意識の習慣の上に成り立っていた。
しかし、旅行者となった彼はあらためて香港を発見するのだ。その香港を彼は父親に迷惑をかけたまま離れてしまった。そこで彼は、父親に長い手紙を書き、最後に「やり直そう」と書き添える。これまで習慣でその言葉を待っていた彼は、自らそれを使うようになる。そして、生活者としての幻想を旅行者としての現実に変えるために、イグアスの滝に向かう。
一方その頃、ウィンはファイのいないアパートで、部屋を整理し、床を磨いている。そして初めて生活者の孤独に苛まれる。そんなウィンが見つめる光の滝とファイが見つめる現実の滝は、香港を喪失した者と発見した者との違いを象徴している。
この映画のこうした物語の流れに説得力を与えているのは、間違いなく映像の力である。映画はアルゼンチンの冬から始まり、春から夏の終わりへと変化していく。映像は冷え冷えとしたトーンのモノクロで始まり、ファイとウィンがよりを戻すところでカラーに変わる。これはもちろん季節と彼らの関係の変化の両方を表している。しかしそれだけではなく、カラーの映像は、温もりや人物の感情を繊細に表現してもいる。
特に印象的なのは料理にまつわるイメージだ。赤系が際立つファイの部屋に対して、共同の炊事場やファイが働く中華料理店の厨房は、意識してブルーが強調されている。そんな冷たいトーンの空間のなかで、火を使って調理される料理からは、確かに温もりが感じられる。その温もりは最初、ファイとウィンのためにあり、彼らが炊事場でタンゴを踊る場面すらあるが、炊事場は同時にファイの生活者としての立場も象徴している。
しかしウィンがたびたび外出するようになると、ファイは店の厨房で夜食を作り、温もりをチャンと分かち合うようになる。さらにふたりは、夏の陽射しを浴びてサッカーに興じる。この温もりは最終的に、チャンの家族が営む台北の屋台へと結びついていく。
最後に、映像から浮かび上がる鮮烈な赤がこの物語を補完する。ファイは、食肉処理場の床に溜まった血を洗い流しながら、ウィンと別れる決意を固めるが、その赤は彼の部屋やウィンのパスポートの色でもある。そしてチャンが最果ての地にたどり着いたとき、灯台からもうひとつの赤が浮かび上がる。ファイが台北の屋台で、最果ての地を背景にしたチャンの写真を盗み取るのは、それが彼にとっても旅行者としての大切な証となるからだ。こうしてファイは、返還の年に「やり直す」ために香港に帰ってくるのだ。 |