映画監督のウンソクは仲間のスタッフとともに、愛をテーマにしたインタビューで構成されるドキュメンタリーを制作している。彼は、インタビューの撮影で出会ったイ・ヨンヒと名乗る美容師に関心を持ち、彼女の日常をカメラに収めようとする。ところが撮影を進めるうちに、美容師のイ・ヨンヒは別人であることがわかる。
しかし、その事実に本当に驚いているのは、仲間のスタッフであって、ウンソクではない。実は彼は彼女のことを知っていた。1年前、パリに留学していたとき、ダンサーとして韓国からやってきた彼女とそのパートナーのパフォーマンスを撮影していたのだ。そういう意味では、ウンソクと彼女は共犯関係にある。彼女は何らかの事情で別人を演じ、彼も彼女に別人を演じさせているからだ。
この映画からは、ひとたび他者となり、芝居を演じることなしには、直視することができなかった男女の悲劇が浮かび上がってくる。しかしこの映画の場合には、芝居という虚構からやがて真実が見えてくることだけが重要なのではない。ヒロインが墓参りを通して、ウンソクの前に自分の本当の姿をさらけ出すとき、彼女の真実のドラマは、ウンソクがパリ留学時代に撮影を手伝った劇映画のなかのドラマという虚構の世界にダブっていく。
しかもダブるのは、必ずしも墓参りのドラマだけではない。この劇映画の撮影は、ヒロインらしき女優が真っ直ぐにつづく並木道を歩いてくる場面から始まるのだが、現実の世界におけるヒロインの墓参りのあとで振り返ってみると、その場面が『第三の男』のラストシーンを連想させる。なぜなら、死んだ男とその男を想うヒロインと彼女を見つめるウンソクの微妙な三角関係が、『第三の男』のラストシーンにおける男女の関係に通じているからなのだ。
というようにこの映画は、現実と虚構の境界に、視覚的な、あるいは映画的な曖昧さを残そうとする。つまり、虚構を通して真実に至るドラマのように見えながら、実は現実と虚構の往復運動にこそ真実を見ようとしているのだ。そんな構造が非常に新鮮であり、男女の関係を魅力的なものにしているのである。
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