俳優として活躍してきたロバート・レッドフォードの初監督作品『普通の人々』は、80年代の幕開けを告げるのに相応しい視点と表現を備えた傑作である。
シカゴ郊外の緑に囲まれた閑静な高級住宅地。弁護士の父親カルビンと専業主婦の母親ベス、17歳の高校生コンラッドという三人家族の生活は一見、豊かで平穏に見える。しかし彼らはそれぞれに胸の内に空白を抱え、お互いの気持ちを探りあうような日々を送っている。というのも一家は、長男の事故死と兄の死に対する罪悪感を拭い去れない次男コンラッドの自殺未遂というふたつの悲劇に見舞われていたからだ。
この映画には、ジュディス・ゲストの『アメリカのありふれた朝(原題:Ordinary People)』という原作がある。平凡な中流階級の主婦が初めて書いた小説で、76年に出版されてベストセラーになった。そのゲストはタイトルについて以下のように語っている。
「今日では、平凡で普通の人々をよしと評価する傾向が強まってきていると思います。「普通の」とは、人並みで、正常で、調和のとれたという意味です。読者として、わたしはここ何年も、異常であること、異常な人々をもてはやすような傾向の本が氾濫していることにすくなからず腹立たしい思いを味わってきました」(『アメリカのありふれた朝』、ジュディス・ゲストのあとがき)
原作には、激動の時代を経てもう一度普通であることの意味と価値を見直そうとする意図がある。だが、レッドフォードの関心は彼女とは違う。彼は映画化の動機について以下のように語っている。
「見せかけと現実の問題に興味を引かれた。人の目に映る自分自身の姿と、自身の現実とにはかなり差があると思う。(中略)自分が大人になり旅を多くするにつれ、人々が、自分が本当は何者なのかということより、見せかけの方をもっと気にしていることに気づいた。自分の感情に正直であろうとすれば、人生を随分無駄に過ごしてきたという事実に直面せざるをえないのではないか」(『普通の人々』劇場用パンフレット)
この映画では、見せかけと現実をめぐって主人公一家のなかで溝が広がっていく。母親は、ショッピングやパーティ、休暇旅行という郊外のコミュニティのサイクルに埋没することで、現実から逃れようとする。父親とコンラッドは、同僚や級友と距離を置き、孤立することで自己を確認し、家族と向き合っていく。
しかし、レッドフォードが言わんとしているのは、具体的なドラマのことだけではない。主人公一家のような核家族の原点は50年代にある。その豊かで幸福な家族像はどのように作り上げられたのか。ステファニー・クーンツが書いているように、それは「ある特異な経済的、社会的、政治的要因がからまりあって一時的に生み出された歴史の偶然というべきものであった」(『家族という神話――アメリカン・ファミリーの夢と現実』)。 |