脚本家チャーリー・カウフマンはこれまで、鋭い風刺を盛り込んだ奇想天外でオリジナルな世界を次々と生み出し、監督以上に作品を支配してきたところがある。
だが、『ヒューマンネイチュア』に続いて再びミシェル・ゴンドリーと組んだ新作『エターナル・サンシャイン』では、彼の創造力が十分に発揮されているとはいえない。それはおそらく、ゴンドリーとその友人ピエール・ビスマスの手になる原案が作品の出発点になっているためだろう。
主人公のジョエルは、喧嘩別れした恋人クレメンタインが、記憶を部分的に除去する技術を使って彼の記憶を消してしまったことを知り、同じように彼女の記憶を消そうとする。その施術の過程で、彼が彼女と過ごした時間が逆行していったり、記憶のなかの彼女を守るために少年時代の世界に連れ去るといった展開は、確かにユニークではある。
ゴンドリーが描きたかったのは、除去される記憶を旅するそんな男女の姿だったに違いない。しかし、その結果として入り組むのはあくまで時間であって、男女の内面の方は、複雑な動きを見せることもなく、状況に応じてむしろ単純に変化していく。
これまでのカウフマンの主人公たちは、耐えがたい自己嫌悪と抑えがたい欲望の狭間で、妄想を膨らませ、自分という枠組みすら危うくする暴走を繰り広げてきた。つまり彼らは、自分の内面から目を背け、欲望を満たすために他人を乗っ取り、他者が求める人間に変身し、見せかけの人生を生きようとする。そんな逃避は、閉塞的な社会に身を置くわれわれにとって他人事ではない。
だから奇想天外でありながらリアリティがあり、しかもそのドラマには着地点が見えない緊張感があった。しかし、この映画の男女は、そういう次元には踏み出さない。記憶除去は決して自分という枠組みを危うくするものではなく、結果がどちらに転んでも、安心して見ていられるのだ。
但し、この映画にカウフマン的なキャラクターが皆無というわけではない。たとえば、記憶除去を行う技師のひとりパトリックだ。クレメンタインに恋をした彼は、ジョエルの記憶や私物を密かに自分のものにし、彼女との運命的な出会いを演出する。つまり、彼女への欲望ゆえに、見せかけの人生に踏みだそうとする。
もしそれが成功し、彼が泥沼にはまり込んでいけば、映画のテーマである記憶は、主人公の男女のそれとは比較にならないほど複雑な状況を招き寄せることになる。そして、そういう状況こそが、本来のカウフマンの世界なのだ。
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