キューブリック作品というと、一作ごとに変わるその多様なジャンルに惑わされがちになるが、彼がジャンルという枠を越えて一貫して描きつづけてきたのが、マチズモ(男性優位主義)の世界だ。といっても、もちろん彼がそれを賛美していたわけではない。
『現金に体を張れ』では、男たちが綿密に練り上げた現金強奪のシナリオが、ひとりの女の欲望によって崩れ去る。『突撃』のフランス軍兵士たちは、醜い政治に操られ、士気を高められていくが、そんな兵士たちのマチズモの仮面は、怯えるドイツ人娘の歌によって惨めに剥がれ落ちる。『バリー・リンドン』の主人公は、決闘、戦争、貴族社会のなかでマチズモ教育を施され、野望を叶えるかに見えるが、マチズモが凋落の種を蒔き、映画は虐げられつづけた妻の謎めいた笑みで幕を下ろす。
『2001年宇宙の旅』では、マチズモの起源が鮮やかにとらえられている。モノリスに触れた猿が、骨を武器としたとき、その後のマチズモ的な世界の礎が築かれた。キューブリックが偏愛するシンメトリックな構図、冷たい光に照らしだされるその空間は、制度化された揺るぎないマチズモの世界を象徴している。われわれが、性差を超越したスターチャイルドへと進化したとき、その世界は終わりを告げるのかもしれない。しかし現実には、人間はすでに進化から見放され、マチズモ的な世界に深く囚われている。
キューブリックの作品をドラマという観点から見るとき、マチズモはしばしばエロスとタナトスの錯乱として提示される。『フルメタル・ジャケット』の新兵たちは、銃を女に見立てたり、片手で銃を、もう一方の手で股間を握る訓練が象徴するように、この錯乱を通して、死を恐れず、殺人に徹する海兵隊員に改造される。
そして後半の戦場では、戦闘よりもこの海兵隊員たちと娼婦のやりとりが印象的に描かれ、終盤で敵の狙撃兵が女であることが明らかになるとき、兵士たちの意識と衝動には狂いが生じ、彼らは深い恐怖を覚える。この場面については、まだ正体の見えない狙撃兵が、一発目に米兵の股間を正確に狙っていたことに注目しておくべきだろう。
さらに『シャイニング』の父親にも共通する錯乱がある。彼は殺人が行われたホテルの一室で、全裸の美女を抱き寄せるが、気づいてみると女は腐敗した肉の固まりに変貌している。そんな錯乱を通して彼は、マチズモの伝統が色濃い今世紀初頭の上流社会に引き込まれ、口うるさいメス豚である妻への殺意に駆り立てられるのだ。
キューブリックの遺作『アイズ・ワイド・シャット』もまた、そんな錯乱が鍵を握る作品である。NYの富裕層から信頼される医師ビルとその妻アリスは、友人の富豪が開いた盛大なパーティに出席し、それぞれに別の男女といい雰囲気になる。その翌日の晩、マリファナでハイになった夫婦は、パーティでの出来事を語り合ううちに話題がエスカレートし、アリスは、実際には何も起こらなかったが、ひょっとすると夫を裏切っていたかもしれないような男がいたことを告白する。ビルはその告白を表面上は聞き流すが、頭のなかは他の男に抱かれる妻のイメージに支配され、思いもよらない世界に引き込まれていく。 |