イスラエルを代表する監督アモス・ギタイの『キプールの記憶』、ユッタナー・ムクダーサニット監督のタイ映画『少年義勇兵』、そして松井稔監督のドキュメンタリー映画『リーベンクイズ 日本鬼子』は、戦争の歴史や記憶をそれぞれに独自のアプローチで描き出す作品である。
『キプールの記憶』の背景は、73年のヨム・キプール戦争(第四次中東戦争)。67年の第三次中東戦争では大きな勝利を収めたイスラエルだったが、国中が静まりかえるユダヤの贖罪の日に、エジプト、シリアの奇襲攻撃で火ぶたが切られるこの戦争では、イスラエル軍が収拾のつかない混乱ぶりを露呈する。監督のギタイがこの戦争を、アメリカにおけるケネディ暗殺に例えたり、“無垢の時代の終焉”という表現を使っていることからも、それが国民に与えた影響の大きさをうかがうことができる。
当時23歳だったギタイは、負傷兵をヘリで移送する任務についていたが、ある日そのヘリが撃墜され、九死に一生を得た。映画はその強烈な体験がもとになっている。この映画には敵の姿もなければ、戦闘もあくまで背景にとどまっている。無残な戦場で死者と負傷者を選別し、身動きもままならないヘリで戦場と病院を往復する。
主人公たちのなかにあった信念や情熱は打ち砕かれ、繰り返される救護活動のなかで、精神的にも肉体的にも極限まで消耗しきる。映画を支配するのは無秩序の異様な重圧であり、荒漠とした大地に刻まれた迷走する戦車のキャタピラの痕跡がそれを象徴している。
『青年義勇兵』の背景は、真珠湾攻撃に先立ってアジアで行われた日本軍の奇襲作戦であり、これは日本人が知っておくべき史実である。映画にはドキュメンタリー的な視点も盛り込まれ、タイにおける太平洋戦争の記憶を映像に刻み込む狙いも感じられる。
しかし、ムクダーサニット監督が着目しているのは14歳から17歳の少年義勇兵の存在であり、少年たちの想い、葛藤、成長を描く青春映画になっている。彼らのドラマから浮かび上がってくる初々しさ、純粋さ、そして悲壮感は、一瞬ピーター・ウィアーの『誓い』を思い出させる。
『リーベンクイズ 日本鬼子』は、満州事変から日本の敗戦に至る日中十五年戦争の軌跡をたどりながら、中国で侵略戦争を遂行した元皇軍兵士14人を日本各地に訪ね、彼らが行った行為についての赤裸々な告白を記録している。日本軍の残虐非道な行為はすでに認知されていないわけではないが、個人の口から詳細に語られる真実には戦慄すら覚える。戦争の実態を知る上で必見の映画であることは間違いない。
ここに取り上げた三本の映画は、日常からかけ離れた戦争というものの苛酷な現実や狂気を描いている。なかでも『リーベンクイズ 日本鬼子』はそれが際立っている。そればかりか、この映画からは次第に戦争に限定されないもうひとつの重要な主題が浮かび上がってくる。残虐非道な行為は恐ろしいが、ある意味でもっと恐ろしいのは、兵士がそんな行為を率先してやるようになる非人格化、脱人間化のシステムである。
筆者が思い出すのは、社会学者ジョージ・リッツアが書いた『マクドナルド化する社会』とその続編である『マクドナルド化の世界』のことだ。二冊の本は、マクドナルドに象徴されるような徹底的な合理化、効率化が世界を覆う現状とその過程で生ずる非人格化や脱人間化といった非合理性を多面的な視点でとらえている。この合理化は日常と戦争の境界を消し去りもする。著者はその極致としてホロコーストに言及しているからだ。
それが極端だと思われる方には、ナチス戦犯アドルフ・アイヒマンの裁判のドキュメンタリー『スペシャリスト 自覚なき殺戮者』をまずご覧になることをお薦めしたい。この映画で、自己の非道な行為を、どこかの会社の会議で業績でも報告するかのように説明し、組織のなかの人間としての自己を弁護する彼の姿は、ナチス親衛隊という言葉から想像されるイメージからは程遠い。そして裁判のなかで、彼をナチズムの神話に押し込もうとすればするほど、彼の人間存在の空白が際立つことになる。
『リーベンクイズ 日本鬼子』に記録された数々の証言は、皇軍思想の徹底的な浸透ではなく、新兵を率先して非道な行為を行う機械に変える非人格化、脱人間化の課程を生々しく浮き彫りにする。映画の資料には監督の以下のような言葉がある。「私たちは未来のために、戦争の実態、組織の歯車となった人間の狂気と弱さ(これは平和な現在にも存在する)を知らねばならない」。この括弧のなかの言葉は重要である。
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