リーベンクイズ 日本鬼子

2000年/日本/カラー/160分/スタンダード
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(初出:「中央公論」2001年12月号、加筆)
徹底的な合理化が生みだす非人格化の恐怖

 『リーベンクイズ 日本鬼子』は、中国大陸で侵略戦争の実行者となった元皇軍兵士14人を日本各地に訪ね、自らが行った加害行為の告白を記録したドキュメンタリーである。この映画は、満州事変から敗戦に至る日中15年戦争の軌跡をたどりながら、そこに彼らの告白を盛り込み、戦争の実態が明らかにされていく。

 中国大陸で日本軍が行った残虐非道な行為については、すでに認知されていないわけではない。しかし元皇軍兵士たちの生きた言葉で、詳細に語られるあまりにも惨い現実には、戦慄すら覚える。この戦争の実態を知る上で、必見の映画であることは間違いない。しかしこの映画からは、次第に戦争に限定されないもうひとつの重要な主題が浮かび上がってくる。

 残虐行為は確かに恐ろしい。だが、ある意味でもっと恐ろしいのは、そんな行為を率先してやるように人間を改造するシステムである。筆者はこの映画を観ながら、社会学者ジョージ・リッツアが書いた「マクドナルド化する社会」のことを思い出した。この本は、マクドナルドに象徴されるような徹底的な合理化、効率化が世界を覆う現状とその過程で生ずる非人格化や脱人間化といった非合理性を多面的な視点でとらえている。この徹底的な合理化は日常と戦争の境界を消し去りもする。著者はその極致としてホロコーストに言及しているからだ。

 それが極端だと思われる方には、ナチス戦犯アドルフ・アイヒマンの裁判のドキュメンタリー『スペシャリスト』をご覧になることをお薦めしたい。この映画で、自己の非道な行為を、どこかの会社の会議で業績でも報告するかのように説明し、組織のなかの人間としての自己を弁護する彼の姿は、ナチス親衛隊という言葉がまとうイメージからは程遠い。そして裁判のなかで、彼をナチズムの神話に押し込もうとすればするほど、彼の人間存在の空白が際立つのだ。


◆スタッフ◆

監督/脚本
松井稔
製作/撮影 小栗謙一
ナレーション 久野綾希子
音楽 佐藤良介
 
(配給『日本鬼子』製作委員会・イメージフォーラム)
 


 『リーベンクイズ』で注目すべきは、自らの経験を告白する元皇軍兵士たちのその語り方だ。彼らは、良心の呵責や罪悪感に苛まれながら、涙ながらに語るのではない。彼らは細部に至るまで淡々と語る。それは彼らが特別に冷酷な人間であることを意味するのではない。彼らの体験とその記憶は、合理的なシステムによって彼らに植え付けられたモードとともにある。彼らにとって本当に苦痛なのは、過去を告白するために短い時間だけそのモードに復帰することを実行する瞬間だ。ひとたび復帰すれば、それは彼らであって彼らでなく、人間性に苛まれることなく淡々と語ることができる。それが徹底的な合理化というものの恐ろしさを如実に物語る。

 この映画に記録された数々の告白は、皇軍思想の徹底的な浸透ではなく、新兵たちを率先して非道な行為を行う機械に変える非人格化、脱人間化の課程を生々しく浮き彫りにする。映画の資料には監督のこんな言葉がある、「私たちは未来のために、戦争の実態、組織の歯車となった人間の狂気と弱さ(これは平和な現在にも存在する)を知らねばならない」。この映画は、日常からかけ離れた戦争というものの苛酷な現実や狂気を描きだしているように見えながら、告白に耳を傾けているうちにそこに奇妙に身近なものを感じるようになる。それは、戦争の実態とともに戦争に限定されない重要な主題を扱っているからであり、現代の日本を見直す上でも意味深い作品になっているのだ。

(upload:2002/03/24)
 
 

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